太田述正コラム#5452(2012.4.30)
<ナチスドイツの最期(その1)>(2012.8.15公開)
1 始めに
 現代欧州史について、ご無沙汰して久しく、禁断症状的になってきたので、(コラム#1894や2715で)お馴染みのイアン・カーショウ(Ian Kershaw)の新著、『終焉–ヒットラーのドイツ 1944~45年(The End: Hitler’s Germany, 1944-45)』のさわりを書評をもとにご紹介し、私のコメントを付したいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/16/ian-kershaw-the-end-review
(4月18日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8695599/The-End-Hitlers-Germany-1944-45-by-Ian-Kershaw-review.html
(4月24日アクセス。以下同じ)
C:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-end-hitlers-germany-194445-by-ian-kershaw-2341116.html
D:http://www.dailymail.co.uk/home/books/article-2027572/A-bitter-end-THE-END-HITLERS-GERMANY-1944-45-BY-IAN-KERSHAW.html
E:http://www.newstatesman.com/books/2011/09/germany-1944-hitler-germans
F:http://www.historytoday.com/blog/2012/01/end-hitler%E2%80%99s-germany-1944-45Ghttp://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?storycode=417190
H:http://www.spectator.co.uk/books/7174333/nothing-left-to-lose.thtml
2 ナチスドイツの最期
 (1)序
 「この本は、1945年4月に、絵葉書のような自分の郷里のアンスバッハ(Ansbach)<(注1)>が前進してくる米軍によって破壊されないようにしたかった19歳の学生のロベルト・リムペルト(Robert Limpert)の物語から始まる。
 (注1)ドイツのバイエルン州で、ニュルンベルクの南西約40kmに位置する町。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F
 米軍は数時間の所まで迫っていて、ドイツ軍の部隊は既にこの町から撤退していた。
 しかし、大佐たるドイツ軍司令官は、熱狂的なナチであり、市民達は死ぬまで戦わなければならないと布告していた。
 この学生は、最近傍の軍事基地と結んでいたところの、この司令官の電話線を切断した。
 彼は、ヒットラー・ユーゲント<(コラム#701、5002、5238)>の2人によって目撃されていた。
 彼らは、ロベルトのことを警察に知らせ、警察は彼を逮捕し、その旨を司令官に伝えた。
 この司令官は、三人からなる警察法廷(police tribunal)を開き、わずか2分で即時処刑を言い渡した。
 <処刑場とされた>市役所前広場から、ロベルトは縄を振りほどいて逃げ出した。
 100メートル疾走したところで、彼は、警察だけではなくその広場に集まっていた群衆のうちの何名かの助力の下に捕らえられ・・その際、彼らは警察と一緒に彼を蹴ったり殴ったりした・・、悲鳴をあげながら引きずり戻された。
 彼は吊るされたが縄が切れた。
 <それでも、>誰も身じろぎ一つしなかった。
 彼は再び引きずられて行き、死に至らしめられた。
 大佐は、彼の遺体を、腐臭を放つようになるまでぶらさがったままにしておくように命じた。
 それから、彼は、自転車を徴発すると、<それに乗って>全速力で町から脱出した。
 4時間後、米軍は一発の銃弾を発射することなく、この町を占領した。
 このような、無意味な殺人の光景が、切迫した敗北に直面していたドイツの西方と東方の国境線地域のあらゆるところで繰り広げられた。
 大事な点は、人々が何をしなかったかだ。
 しゃべることを許されていなかったロベルトに対して、警察は一言も質問を発さなかったし、行政官達は彼の大急ぎの処刑を遅らせるようなことを何もしなかった。
 <そして、>町の人々は黙ってこれを見守った。
 誰もが異議を唱えることすらしなかったのだ。
 当局(regime)は、明らかな公衆の承認の下、容赦なくその流儀を貫いたわけだ。・・・」(D)
 「・・・この町は陥落することが決まっており、ナチの大佐は、自身、処刑の直後に逃亡した。
 それなのに、警察は、どうして米軍が到着するまで、処刑を引き延ばすことによってこの少年を助けようとしなかったのだろうか。
 そもそも、万人共通の人間性に照らすまでもなく、彼らの征服者<たる米軍>に対して自分達自身をよりよく見せかけることができるという自益的論理に照らして、<説明し難いところの、>命令に引き続き従うなどという<愚かな>ことを<彼らは>一体全体どうしてやってのけたのだろうか。・・・」(B)
 「・・・<もう一つ、同年の>1月と2月に全部で113,000人の囚人達が死の行進をさせられた。
 控えめに見て、少なくともその3分の1は<、この行進を>生き延びることができなかった。
 若干の村人達が彼らにパンを投げ与えたけれど、彼らが通り過ぎて行くのを見ていた大部分の人々は無関心であるか敵対的だった。
 見ただけで人間の廃品と化していたところの、囚人の縦列群が町を通って行くと、彼らは、嘲られ、唾を吐きかけられ、石を投げつけられた。
 市民達は、彼らに食料や飲み物を与えることを拒み、彼らが逃亡した時には検挙したりさえしたのだ。・・・」(D)
 「・・・戦争のそれ以外の期間のすべての一般市民の死と住居の喪失よりも多くの死と喪失がこの<最終>期間に生じた。
 この最終場面において、この戦争中の全兵士の戦死の半分が生じた。・・・」(H)
 「・・・<また、>空戦のエスカレーションによってドレスデン<空襲>の惨事がもたらされた。 
 別の場所においては、これは、強制収容所の収容者達の死の行進が行われた期間でもあり、絶望的なドイツ民兵(Volkssturm militia)<(注2)>の戦闘への登場の期間でもあり、また、ドイツ一般市民の集団強姦や集団自殺が行われた期間でもあった。・・・」(C)
 (注2)1944年10月18日に、ナチス党によって設立された。ドイツ国内防衛隊(German Home Guard)にまだ入っていなかった、16歳から60歳までの男性を徴用した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Volkssturm
(続く)