太田述正コラム#5549(2012.6.20)
<再び義和団の乱について(その1)>(2012.10.5公開)
1 始めに
 太平天国の乱とくれば、併せて義和団の乱も取り上げたくなります。
 デーヴィッド・J・シルビー(David J. Silbey)が ‘The Boxer Rebellion and the Great Game in China’ を上梓したので、その書評等に拠ってその概要を紹介し、私のコメントを付すことにします。
A:http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304692804577285872628265712.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(3月29日アクセス。書評(以下同じ))
B:https://www.kirkusreviews.com/book-reviews/david-j-silbey/boxer-rebellion-great-game-china/
(6月19日アクセス。以下同じ)
C:http://whatever.scalzi.com/2012/04/05/the-big-idea-david-j-silbey/
(著者による解説)
D:http://www.historynet.com/interview-with-historian-david-silbey.htm
(著者のインタビュー)
 なお、シルビーは、米コーネル大学の(首都)ワシントン校の教師であり、米比戦争についての著書があります。
http://us.macmillan.com/author/davidjsilbey
2 再び義和団の乱について
 (1)背景
 義和団の乱(Boxer Rebellion)(注1)とは、義和拳(Yi-he-quan=Righteous Fists of Harmony)(注2)を学んだ者達(欧米ではボクサー(boxer)と呼ばれるようになった)が支那の華北及び満州で起こした騒擾です。(B、C)
 (注1)1900~01年。「義和団事件・義和団事変・北清事変・清国事変との呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変とも言われる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注2)「19世紀の末には中国山東省で武術組織とキリスト教との間で頻繁に争訟が発生していた。梅花拳の武術家もこれに関与し、1897年に教会襲撃事件(曹州教案)を起こしたが、伝統ある梅花拳全体に影響が及ぶことを避け、自らを義和拳と称したとするのが通説である。彼らは義和団と呼ばれ、義和団の乱に深く関与する。・・・<ただし、>白蓮教の支派であり、1808年にはすでに秘密宗教結社として存在していたとする説もあり、その中には天理教 (中国)との密接な関係を指摘する説も存在する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E6%8B%B3
 「<義和団の乱に加わった人々は一般民衆であり、書き物を残していないため、この乱について書き記したのは、>だいたいは、彼らを忌み嫌った人々・・彼らと戦った欧米の兵士達、彼らをコントロールしようとした支那の官僚達、そして彼らのことを実のところ理解せずして布教していた宣教師達・・だった。・・・」(C)
 「<義和団の乱の背景だが、>第一次支日戦争<(=日清戦争)>における大災害的敗北は、支那人達に衝撃を与え、改革の必要性を感じさせた。
 しかし、西太后が統治している以上、改革が行われることはなかった。・・・」(B)
 「・・・<その>支那には、混沌状態になると、秘密結社群が蹶起するという長い伝統がある。・・・」(D)
 「・・・義和団にとっての問題は、欧米人達の宗教それ自体ではなかった。
 衰亡しつつあった清政府によって生じた真空の中で、外国の教会系の諸団体が地方政府に役人を出し、やはりこの真空を埋めようと動いていた義和団のような支那の秘密諸結社と直接的な競争関係に立った。
 義和団は、指導者がおらず、おおむね文盲の農夫たる戦闘員達がゆるやかに結ばれた即席のネットワークを形成していたために、彼らを押しとどめることは困難だった。
 この運動は、1900年に春の雨が降らなかった時、急速に勢いを増した。
 穀物を植えることができず、農夫達は手持無沙汰になり、欲求不満が募って、義和団による募集の呼びかけを受け容れ易くなっていた。・・・」(A)
 「・・・義和団運動は、北京の南方の山東省で始まった。
 この省は、喧嘩好き<な住民>で有名あり、伝説的な梁山泊(Mt. Liang)<(注3)>の山賊達・・支那版のロビン・フッド・・の根城であって、支那軍が盛んに兵士を募集した省でもあった。
 (注3)「<現在の>中国の山東省済寧市梁山県に存在した沼沢である。・・・梁山泊近辺に横行した反抗者の中でも、北宋末期の12世紀初頭に河北で蜂起し山東一帯で10郡を制圧した宋江の反乱軍は猛威をふるった。・・・まもなく宋江の反乱は鎮圧されるが、やがてこの史実をもとに、梁山泊に宋江以下36人の有志たちが立てこもる物語が生み出され、明の初め頃に、梁山泊に集う108人の有志たちを主人公とする小説『水滸伝』へとまとめられた。・・・<ただし、>現在の梁山泊は、沼沢の面影を全く残していない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%B1%B1%E6%B3%8A
 なお、英語ウィキペディアは、山賊の拠点を「梁山泊近辺」ではなく「梁山」としている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Liang
 この省は、冬季には臨時に山賊になることを厭わないところの、勤勉なる農夫達の故郷だった。
 それは、地主階級がわずかしかいない貧しい省であり、民衆は、最も良い年においてさえ、食うのがやっとだった。
 それは、孔子の生誕地だった。
 それは、好むと好まざるとにかかわらず、帝国主義のグレート・ゲームの中で指導的役割を演じた省であり、とりわけ攻撃的な一連のドイツと米国の宣教師達がおり、ドイツの海軍基地があった。
 それは、支那の他の地とほとんど同じ形で生活が営まれていた省だった。
 骨の折れる労働から、時々、市が立つ期間に上演される劇<の観劇>だけによって解放され、その折には、観客席の一部が地域の神々のために注意深く空けられたものだ。
 それは、支那の北部と南部とを結んでいるところの、工学の驚異たる、大運河(Grand Canal)が流れる省だった。
 いや、流れていた、と言うべきか。
 というのも、1855年に黄河の流れが変わって大運河がせき止められたからだ。
 それは、19世紀の間は累次の氾濫によって苦しめられたが、1900年にはひどい旱魃が2年目に入っていた、という省だった。
 これが、・・・農夫たる義和団の面々が住んでいた世界だった。
 これらを理解することによって、・・・少なくとも部分的に、彼ら<がどんな人間達であるか>をおぼろげなりに感知することができ<る。>
 既に貧しかった彼らは、旱魃と近代産業の侵入により、飢餓寸前にまで押しやられていた。
 旱魃は、ゆっくり進行する自然災害だが、彼らに自分達の艱難について考察する時間を与えた。
 欧米帝国主義は、彼らのために、標的たる外国人達を豊富に取り揃えてくれていた。
 彼らは、自分達の状況を宥恕したり、その状況に対して何も対応しないような種類の人々ではなかった。
 義和団員として叛乱に加わることによって・・・(少なくともほんの少々、)彼らを取り巻く世界をコントロールするとともに、自分達の窮状に責任があると彼らが考えた連中を処罰する機会が与えられたわけだ。
 精神的神秘主義と肉体的規律の実践は、彼らに伝統的な支那への回帰と近代世界からの退避を提供したように・・・見える。・・・」(C)
(続く)