太田述正コラム#5586(2012.7.8)
<クラシック音楽徒然草–歌劇(その4)>(2012.10.23公開)
2 プッチーニ
 (1)蝶々夫人
 プッチーニ(Giacomo Puccini。1858~1924年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B
の『蝶々夫人(Madame Butterfly)』は日本人で知らない人はいないでしょう。
 日本語ウィキペディアは、以下のような記述になっています。
 「『蝶々夫人』については、日本語ウィキペディアは、「・・・長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年に・・・発表した短編小説(Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものである。・・・
 ロングは小説が実話に基づくとは明言しておらず、また、彼自身がアメリカ士官を貶めているともとれる小説の人物設定について多くの批判を受けていたこともあり、真相は曖昧にされたまま現在に至る。
 当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していた。ロシアの皇太子時代のニコライ2世や、ドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも、長崎駐留中には日本人妻がいた。下級の軍人が揚屋などの売春宿などに通って欲望を発散する一方、金銭的に余裕がある高級将校などは居宅に女性と暮らしていた。この際の婚姻届は、鎖国から開国にいたる混乱期の日本で、長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したい長崎奉行が公認しており、飽くまでも一時的なものだった。相手の女性も農家から長崎の外国人居留地に出稼ぎに来ていた娘であり、生活のために洋妾になったのである。互いに割り切った関係であり、この物語のように外国人男性との関係が真実の恋愛であった例は稀である。現に、シーボルトの日本人妻だった楠本滝は、シーボルトの帰国後に婚姻・離婚を繰り返している。まして、夫に裏切られて自殺をした女性の記録は皆無であり、蝶々夫人に特別なモデルはいない創作上の人物であると考える説も有力である。・・・」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%B6%E3%80%85%E5%A4%AB%E4%BA%BA
 ところが、これと矛盾するような記述が英語ウィキペディアに出てきます。
 「・・・<この歌劇の筋の中には、>ピエール・ロティ(Pierre Loti)による小説『菊夫人(Madame Chrysantheme)』(1887年)に拠っている部分があるように見受けられる。
 ・・・学者<の>・・・アーサー・グルース(Arthur Groos)<は、>・・・1994年<の本>・・・’The Puccini Companion, Lieutenant F. B. Pinkerton: Problems in the Genesis and Performance of Madama Butterfly’・・・<の中で、>この歌劇の筋は、1890年代初期に長崎で実際に起こった出来事をベースにしている、としている。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Madama_Butterfly
 日本語の方のウィキペディアにはロティへの言及は全くありませんが、そもそもこのウィキペディアは珍しくも典拠が全くついておらず、信頼性に乏しい、と考えるざるをえません。
 そこで英語の方のウィキペディアを踏まえると、蝶々夫人のモデルになった日本人女性は、相手とは「割り切った関係」であることに気付かなかったKYであったかどうかはともかくとして、相手に「真実の恋愛」感情を抱いていたか抱くに至ったのに対し、相手たる海軍士官はそんな女性を裏切った薄情な男だった、ということになりそうです。
 ところで、「『菊夫人』は、日本の長崎に駐在していた時に一時的に一人の芸者と結婚したある海軍士官の自伝的日誌の形をとった小説だ。
 もともとはフランス語で1887年に書かれた、この『菊夫人』は、当時としては売れ行きが良く、出版されてからの5年間で25版を重ね、英語を含むいくつもの言語に翻訳された。
 この小説は、20世紀になるかならないかの頃において、欧米の日本に対する見方を形成する主要な典拠となったと考えられてきた。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Madame_Chrysanth%C3%A8me_(novel)
というのが正しいとすると、日本人女性を芸者イメージで欧米人がとらえるようになったことについて、歌劇の『蝶々夫人』・・蝶々さんも没落士族の子女ではあっても芸者だった(蝶々夫人の英語ウィキペディア上掲)・・の影響と小説の『菊夫人』の影響のどちらが大きいのか知りたいところですね。
 なお、欧米における芸者イメージには2種類あることに注意が必要です。
 『蝶々夫人』と一致するのは、「19世紀以来、日本女性の典型として・・・「芸者」イメージ・・・風変わりで、女性らしさと審美主義を合せ持<っている>・・・があり、それは日本そのもののイメージとも重なっていました。」(この筆者は、かかるイメージを普及させたのは、アーサー・ゴールデン著『ゲイシャ物語』であるとしている。)
http://www15.ocn.ne.jp/~hosa2/40ayamatta.html 
ですが、もう一つは、「アメリカ占領軍の兵士達は、・・・「芸者」という概念をプロの売春婦として位置づけた<が、>・・・<それも無理はないのであって、一般の日本人にも、>芸者<を>「太夫」または「花魁」(高級売春婦)と同じものとみな<す者が少なくなかったからだ。>」
http://www.takarabako2009.republika.pl/ma.html
であり、こちらのイメージは『菊夫人』が普及させた部分があるのかどうか、ご存知の方はご教示ください。
 さて、プッチーニは、この歌劇で日本を正しく伝えることに腐心したとされてきました。
 「・・・プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだ。当時の日本大使夫人の大山久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めた。1902年にはプッチーニはパリ万国博覧会で渡欧していた川上貞奴に会ったとも云われている。・・・
 当時のジャポニスムの流行も反映してかプッチーニは日本の音楽を収集し、使用している。そのため、同時期に作られた「ミカド」などよりは、はるかに日本的情緒のある作品に高めており、今日、日本人に好まれるオペラの一つにしている要因となっている。 この「引用、転用」は後に「トゥーランドット」でも行われる。
「宮さん宮さん」<作詞:品川弥二郎 作曲:大村益次郎 歌:春日八郎
http://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0 >
「さくらさくら」
< http://www.youtube.com/watch?v=hDh4ml7Jb-I >
「お江戸日本橋」<歌唱:森昌子
http://www.youtube.com/watch?v=IJOmGJxiB58&feature=related >
「君が代」<歌唱:松崎しげる
http://www.youtube.com/watch?v=CySr03YZStw&feature=related >
「越後獅子」<長唄三味線:松浦奈々恵(杵屋三澄那)
http://www.youtube.com/watch?v=Ep7Pm8fgTwM
http://www.youtube.com/watch?v=eeuIDB1W9VY >
「かっぽれ(豊年節)」<唄三味線:武下和平
http://www.youtube.com/watch?v=0stlNDt6ajc ←これかどうか自信なし(太田)>
「推量節」<端唄:菊榮
http://www.youtube.com/watch?v=a46wuyh8bAQ >・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%B6%E3%80%85%E5%A4%AB%E4%BA%BA 前掲
 確かに、ここに列挙されたものに関する限り、全て、当時の日本が提供しうる最良の旋律であり、プッチーニの努力に敬意を表したくもなります。
 しかし、プッチーニは、初歩的な誤りをしでかしていたのです。
 『蝶々夫人』の中に、出所が確認できない東洋的旋律が2か所に出てくるというのですが、この二つの旋律は支那由来なのであり、
http://www.nytimes.com/2012/06/17/arts/music/puccini-opera-echoes-a-music-box-at-the-morris-museum.html?_r=1&pagewanted=all
(6月18日アクセス)
ここから、プッチーニが日本と支那を同じ黄色人種の国としてほとんど同一視していたことがうかがえるのです。
(続く)