太田述正コラム#5702(2012.9.4)
<戦前の衆議院(続)(その3)>(2012.12.20公開)
<岡田忠彦(注5)議員>(同上)
 (注5)1878~1958年。東大法卒。「官界に入り逓信省鉄道書記となる。その後内務省に移り・・・、1916年埼玉県知事、1921年長野県知事、1922年熊本県知事。・・・1923年内務省警保局長に就任するが、虎の門事件で引責辞職。翌1924年に・・・総選挙に無所属で出馬し初当選、以降通算8回衆議院議員総選挙に当選した。・・・1925年に・・・政友会に入党。・・・1942年・・・に・・・衆議院議長に就任・・・鈴木貫太郎内閣では・・・厚生大臣に就任した。・・・<戦後>公職追放・・・。・・・1952年・・・総選挙で自由党の公認で立候補し当選、政界に復帰した。だが翌年の・・・総選挙で落選し政界から引退した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%BF%A0%E5%BD%A6
 「・・・<昭和>十<(=1935)>年度以降に於いて、軍事費の膨張せる<ことが見込まれる>が為に、各省の予算は非常なる削減を蒙る。就中内務、農林に於いては大削減を蒙りまして、九、十此の二年間に於いて、農林、内務の予算と云うものは殆ど半減となると云うことは動かすべからざるものであると思うのである。軍事の膨張は別問題と致して、今日新興日本の最も生命を託すべき所の内治の行政、農林の行政、此の内務、農林の両予算に於いて半分の、而も遽<(にわ)>かなる削減を加うることは何事であるか。・・・
 此の軍事予算と云うものも、亦地方を賑わすものである、景気を回復するには軍事予算も参画して居るのであるからして、軍事予算が何も必ずしも不生産的な事業ではないと云うことを、必ずしも軍部の宣伝とは思わぬけれども、ちらりほらりと何処からともなく新聞に現れて居るようである。私は之を政府に尋ねる訳ではないが、併し万一斯様なる考えを政府当路が持って居ったならば、是より間違ったことはないと申し上げて置きたいのであります。凡そ予算と云うものは必ずそれに相当した目標がなければならぬ。偶々其の余波が景気不景気に関係することであったならば、全部の予算は皆景気に関係するものであると言わなければならぬ。軍部に限ったことではない。・・・
 今日濫りに農村の自力更生を唱うるも、其の手足を極度に束縛して居るのが今日の状況ではないか。斯様なることに対して政府は如何なる方策を為しつつあるか、独り軍器兵器等の物的の国防に偏してはならぬ、先程も同僚の堀切君の言われた通りに、農村の更生策を立てて、之に依り一は以て財的の国防を確立し、一は以て精神的の国防を樹立せなければならぬ。・・・」(58~59、62)
→内務省OBとして、内務族議員的な演説(質疑)であるとも言えそうです。
 なお、高橋蔵相が展開してきた当時の軍事ケインズ主義、陸海軍もちゃっかり宣伝に使っていたようですね。(太田)
<中島彌圑次(注6)議員>(1934.12.1)
 (注6)1886~1962年。東大。「大蔵省専売局参事をへて<1924>年浜口雄幸(おさち)蔵相の秘書官となる。<1927>年浜口民政党総裁秘書。<1928>年衆議院議員(当選6回)。翌年浜口首相秘書官。」
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%9B%A3%E6%AC%A1
 「・・・一千九百三十五六年の危機を控えて、此の危機に対して国防費を集中して沢山な金を取っても、財政の破綻に導いたならば、どうしまするか。一千九百三十九年の危機、亜米利加との比率は三十九年が一番悪くなって来る。其の時の危機がどうして突破出来ますか。私は国防の持久性と云うことと財政の持久性と云うことは、此の点に於いて重大なる関係があると考える。国防を永久に固くして行きますに付いては、財政が固くなければ国防は持て<(ち?)>ませぬ。国防即財政であり、財政即国防であると言うても宜しい。軍艦や、鉄砲が出来ても、金がなかったならば戦うことが出来ない。・・・」(127)
→今度は大蔵省(現財務省)OBとして、大蔵族議員的な演説(質疑)です。(太田)
 「・・・陸軍の「パンフレット」<「国防の本義と其強化の提唱」>を出された時に当たりまして、即ち経済組織の一元化を図り、更に営利経済と云うものの主義を廃し、道徳的観念に基づいは<(た?)>経済観念に依ってやらなければならぬと云うことに付いては、必ずしも反対するものではありませぬ。<ただし、>陸軍が言わんと欲する所を言うならば、堂々言論戦に愬<(うった)>えて来る方が宜しい。言論戦の方を吾々は歓迎致します。・・・是が軍人が政治に干与したとか、干与すべきものでないと云うようなことを言うのは、吝<(けち)>くさい話であるが、此の内容に付いては民間財界は非常に恐れて居ります。八月から九月に於いて株が暴落したのも其の為である。即ち統制経済主義若しくは国家社会主義的の思想が現れて居る。之を実行する考えを陸軍は持って居るのであるや否や。此の点に付きましては日本の財界は非常に心配して居る。是が即ち歳入に影響し、公債発行に付きましても是が非常に影響して来るのであります。・・・
→帝国陸軍が総力戦体制構築の必要性を訴えるのは当然であり、かかる要請も踏まえつつ、日本型政治経済体制が構築されつつあったわけですが、現在と違って、当時は「純正」資本主義が「修正」されることで権益を失うことを恐れた資本家達が民間財界を依然牛耳っており、彼らの声を中島は代弁しているのです。(太田)
 <また、>無条約となった場合に於きまして、艦艇の製艦の経済主義は、海軍の方に於きましては無条約となった場合にも造艦競争は起こらぬと仰しゃって居る。造艦競争は起こらずして、所謂軍備の経済化と云うことを以てやって行くと言って居る。軍艦を拵えても経費の掛からぬ工夫をすると言われて居るが、それはどう云うようにやって行くのであるか。無条約となると云うことは、倫敦会議の今日の予備交渉の状態を見ますならば、明らかであります。此の時に於いて経費が殖えないような計画は、どう云う風な御考えと御計画を以てやられるのでありましょうか。・・・」(129~130)
→これは比較的筋の良い質疑ではあるのですが、繰り返しになりますが、日本の安全保障政策が対赤露抑止を至上命題とするとのコンセンサスが朝野において成立していたことを踏まえ、海軍に比して陸軍に予算を傾斜配分すべきである、そうすれば、米国の猜疑心も呼ばず、日米建艦競争も回避できる、だから海軍軍縮体制は維持すべきだし維持できる、と中島は唱えるべきでした。
 もとより、これは中島一人の非ではなく、当時は、日本に国家の選良が払底してしまっており、政治家も非軍事官僚も、はたまた、陸軍官僚も海軍官僚も、誰一人そんな議論を行いうるほどの識見を備えてはいなかったわけです。(太田)
(続く)