太田述正コラム#5782(2012.10.14)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その5)>(2013.1.29公開)
 「九段牛ヶ淵・・・<に>・・・臨時・・・校舎がきまると、次は要員の人選であった。
 これについて・・・二つ意見が対立した。「士官学校卒業生から選ぶべきだ」とする説と「陸軍予備士官学校卒業生から選ぶ方がいい」という意見である。
 士官学校卒業生は、士官学校で軍人教育をたたき込まれた、いわば職業軍人だ。ところが、できてまもない陸軍予備士官学校<(注15)>の卒業生・・それまで一年志願兵として各師団管区で教育していた予備士官を、強化統一教育する目的で建てられたもので、教育機関は11か月。見習士官として教育され、卒業後に少尉任官となる。・・の卒業生は、将校とはいえ、青少年時代を一般中学、高等専門学校、または大学に学んでいた半民間人–軍隊用語でいえば「半地方人」である。・・・
 (注15)「陸軍予備士官学校とは、日本陸軍の兵科予備役将校を養成する軍学校の一つ。1938年・・・に甲種幹部候補生への集合教育をおこなうため1校が、翌年以降は複数校が設置され、太平洋戦争・・・終結まで存在した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%BA%88%E5%82%99%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 「幹部候補生とは日本陸軍において一定以上の学歴がある者の中から、特に選抜され比較的短期間で予備役将校または下士官になるよう教育を受ける者。日本陸軍では下士官以上が部隊の幹部という位置づけであった。・・・、採用後3か月で予備役士官となる甲種幹部候補生(場合により甲幹と略される)と、予備役下士官となる乙種幹部候補生(場合により乙幹と略される)に区分された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B9%E9%83%A8%E5%80%99%E8%A3%9C%E7%94%9F_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)#.E5.B9.B9.E9.83.A8.E5.80.99.E8.A3.9C.E7.94.9F.E5.88.B6.E5.BA.A6.EF.BC.88.E6.96.B0.E5.88.B6.EF.BC.89_.E7.94.B2.E4.B9.99.E7.A8.AE.E5.88.B6
 「陸軍士官学校は、兵科将校となる生徒を教育する点では同様であるが、・・・士官候補生を生徒として兵科現役将校となる教育を行う点が根本的に異なる。さらに陸軍予備士官学校の入校期間が1年未満と短期間であるのに対し、陸軍士官学校は予科を含めて複数年の教育を行う(入校期間は時代によって異なる)点にも違いがある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%BA%88%E5%82%99%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 前掲
 「士官候補生は陸軍幼年学校及び旧制中学校・・・出身者からなり、指定された連隊や大隊(これを原隊という)で下士官兵(一等兵又は上等兵から始まる)として隊付勤務を経た後に、士官学校に入校する。下士官兵としての隊付勤務を経る点が海軍兵学校と大きく異なる。
 中学校出身者は、12月に一等兵として入隊し、翌年6月に上等兵に昇進する。幼年学校出身者は、中学校出身者が上等兵となるのと同時に上等兵として入隊する。8月に伍長となり、12月に軍曹となる。
 士官学校を卒業すると曹長に進級し、見習士官となって原隊に復帰する。半年ほどで、原隊の将校団の推薦により少尉に任官するという建前になっていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 ことに、それまでの日本陸軍の秘密戦要員は、陸大卒業将校、または外国語学試験に合格した将校の中から選ぶ、きわめて程度の高いものだった。・・・半シロウトの予備士官、幹部候補生出身将校に、・・・この大役がつとまるであろうか。はたして、彼らを信頼できるであろうか・・・というのが、軍の偽らざる考え方でもあり、迷いでもあったのだ。・・・
 <しかし、>いまや戦争の形態は、野戦から総力戦態勢に移行し<たところ、>・・・政治、経済、宗教、思想、文化、科学など、総力戦的国力判定の資料情報<を収集するためには、>・・・思いきって社会常識豊かな半地方人の、予備士官学校で教育した幹部候補生の中から有能な人材を集めるべきである・・・ということにな・・り、「幹部候補生出身将校の中から所属部隊長の推薦したものを選抜試験で入所させる」ということに、ようやく落ち着いた・・・。
 第一期の後方勤務要員として選考をうけたものは、37~8名ではなかったかと思える。そのうち、採用ときまったのは20名。1年間の教育を終えて<1939>年春に卒業したものは18名である。
 1人は・・・退学を申し出て養成所を去り・・・もう一人は学業なかばに病気のため・・・退学した・・・。・・・
 一期生は、単独で各国に潜入、一般市民として定住しながら諜報勤務につかせることを目的に、訓練された。つまり一ヶ所に定住し、「居所の変わらざる武官」、それが軍の狙いだったのである。・・・
 本名は・・・捨てられて、各人が別な名で呼ばれることになった・・・。・・・
 <朝は、>適当な時刻に軍人会館の地下食堂へ出かけ、チケットで飯を食ってくればいいだけ<で、自由に>・・・10時からの学課開始までの時をすごした。
 学課は正午で終わって、午後5時までが諜報謀略の実際を学ぶ術課である。5時からは再び自由時間になって、どこへ遊びにいこうとかってだった。門限時間などもなく、翌朝の10時までに帰れば、外泊すら許されたのである。・・・
 その夏<からは、学生たちは、それまでの構内の宿舎から、借り上げられた>千駄ヶ谷の松平侯爵別邸<に移り、>・・・雇い婆さんをおいて炊事をしてもらい、サラリーマンのようにそこから九段へ通った・・・。・・・
 天皇の批判すら許されていた徹底した自由教育が、中野学校のほんとうの姿だったのだ。・・・
 これとともに、外国の模倣をやめて、日本独自の教育をほどこした・・・。・・・
 <教官達は、>参謀本部の倉庫をあさってみ・・・た。・・・<こうして発見したのが、>明石元二郎大佐<(注16)(コラム#266)>(後の大将。台湾総督在任中病死)の「革命のしをり」だ。(・・・その題名は、中野学校の教材として謄写版刷りにしたときにつけたものと思える。・・・神田の書店で・・・売られているものには「落花流水」の名がつけられている。)」(121~125、131、135~137、139、144、146)
 (注16)1864~1919年。陸士・陸大。「1901年・・・にフランス公使館付陸軍武官となる。・・・1902年・・・にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任する。・・・
 明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。・・・
 後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキ、サボタージュ、武力蜂起などであり、明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。
 明石の工作の目的は、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus) 率いるフィンランド革命党などのロシアの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであった。
 <ちなみに、>明石の著した『落花流水』・・・においては、次のような粗筋が<出てくる・・・。>
 ・・・1904年・・・、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出・・・レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
 ・・・<しかし、>レーニンと会談した事実も、レーニンが上記のような発言を行った事実も確認されず、現地でも日本のような説として流布していない・・・上、ロシア側の防諜機関であるオフラナから監視されており、大半の工作が失敗に終わっていたことが明らかになった。
 ・・・レーニンと会談したという話<等は>、戦後軍内で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定<され>る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E
→中野学校の設立とその運営に係る帝国陸軍の発想の柔軟性には瞠目すべきものがある、と言うべきでしょう。
 なお、畠山は、「落花流水」の記述をうのみにして、以下、詳細に明石の「活躍」を描いていますが、注16のような次第なので、そのごく一部を除いて、引用することは止めました。
 もっとも、『秘録陸軍中野学校』は、まだ明石についての研究が進んでいなかった頃に書かれたものであることから、このことでは畠山を責められないと思います。
 いずれにせよ、前に紹介したところの、畠山の記述、「日露戦争の勝利が、明石元二郎(後に大将)の謀略工作の成功によることは明らかな事実だ。」は大幅に割り引く必要があります。
 もとより、明石が日露戦争の勝利に貢献したことは否定できませんが・・。(太田)
(続く)