太田述正コラム#5800(2012.10.23)
<赤露の東欧支配(その4)>(2013.2.7公開)
 「・・・ソ連軍が到着するや否や、スターリンは彼の<当該>地方用の傀儡達を送り込んだ。
 モスクワで訓練されたこの「小スターリン達」は、地方の独裁者となり、要はスターリンの副王となった。
 彼ら全員が、それぞれの仕方でもって怪物的でユーモアがなく暴虐的な僭主達だったところ、英国では彼らの名前はしばしば忘れられているけれども、それぞれ自身の地においては憎まれた。
 ポーランドのビエルト(Bierut)<(注11)>、チェコスロヴァキアのゴットワルド(Gottwald)<(注12)>、ハンガリーのラコシ(Rakosi)<(注13)>、ブルガリアのトミトロフ(Dmitrov)、アルバニアのホッジャ(Hoxha)<(注14)>、ルーマニアのデジュ(Dej)<(注15)>、そしてユーゴスラヴィアのチトー(Tito)<(注16)>がそうだ。
 (注11)Bolesław Bierut(1892~1956年)。ポーランド大統領:1947~52年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Boles%C5%82aw_Bierut
 (注12)Klement Gottwald(1896~1953年)。チェコスロヴァキア首相:1946~48年、同大統領:1948~53年。党首の時、チェッコスロヴァキア共産党は38%の票をとったが、これは欧州で共産党が単独でとった得票率としては空前絶後。
http://en.wikipedia.org/wiki/Klement_Gottwald
 (注13)Matyas Rakosi(1892~1971年)。ユダヤ系。ハンガリーの事実上の最高権力者:1945~56年。
http://en.wikipedia.org/wiki/M%C3%A1ty%C3%A1s_R%C3%A1kosi
 (注14)Enver Hoxha(1908~85年)。アルバニアの事実上の最高権力者:1944~85年。「スターリン主義的路線に基づく社会主義国家建設を目指し、1948年にはソ連とイデオロギー対立をしたユーゴスラビアとの国交を断絶した。・・・フルシチョフによって「スターリン批判」が行われるとソ連との外交関係を絶ち、中華人民共和国に接近する。また、当時中華人民共和国で進行中だった文化大革命に影響されて、1967年には無神国家宣言を行い国内で宗教を完全に否定し、禁止した。・・・しかし、毛沢東後の中華人民共和国がアメリカに接近するに及んで、1977年から中華人民共和国を批判し、・・・1980年代に入ると、アルバニアは事実上、鎖国状態となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%A3
 (注15)Gheorghe Gheorghiu-Dej(1901~65年)。ルーマニアの事実上の最高権力者:1952~65年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gheorghe_Gheorghiu-Dej
 (注16)Josip Broz Tito(1892~1980年)。ユーゴスラヴィア首相:1943~63年、同大統領:1953~80年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Josip_Broz_Tito
 ホッジャは、スターリン以上にスターリン主義者だった。
 <この中で、>チトーは自分自身の国を解放した唯一の人物だったので、ユーゴスラヴィアでだけは、<その最高指導者が>正統性と人気を持っていた。・・・
 彼らは、スターリンの役人達と(KGBの前身の)MGBの役人達の特別チームによって緊密に助言を与えられ詳細に監督された。
 共産主義者達は、これらの新ミニMGB群によって支援されつつ、こっそりと、或いはクーデタによって徐々にコントロールを獲得して行った。(チェコの外相はプラハのお城から投げ落とされて死亡した。<(注17)>)・・・
 (注17)亡命政府で外相に就任した1940年から戦後にかけてずっとチェコスロヴァキア外相であり続けていたところの、ヤン・マサリク(Jan Garrigue Masaryk。1886~1948年)は、1948年3月10日、パジャマ姿で外務省の彼のトイレの下の中庭で死んでいるのが発見された(この箇所、典拠が付されていない)。自殺説もあったが、2004年にプラハの警察が他殺と最終的に断定した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Masaryk
 アップルバウムは、自分の強制収容所(Gulag)研究を振り返りつつ、これらのミニ僭主達が、いかにスターリンのような人間へのミニ・カルトを醸成したか、いかにシベリアの強制収容所からやってきたソ連の顧問達が、政治的反体制派のための恥ずべき(vile)監獄基地(prison camp)群を創り出したか、いかに何千もの無辜の中産階級の人々が逮捕され追放され、そして射殺されたか、いかに教育がソ連化されたか、いかに独立的諸組織が押しつぶされたり植民地化されたか、いかにメディアが独占化されたか、いかに独裁制が樹立されたか、を示す。
 1940年代末から50年代初には、スターリンによるコントロールは非常に強固になり、これら諸国の全てに新たな粛清(terror)を押し付けた。
 それは、共産党幹部達の見世物裁判も伴ったところの、彼自身による1937~8年の大粛清(Great Terror)そっくりだったが、それには、今回は反ユダヤ主義という追加された毒が入っていた。
 裁判にかけられ、自分達の罪を告白した共産党の指導者達は、それに引き次いで射殺された。・・・」(E)
 (5)抵抗運動
   ア 非暴力的抵抗
 「・・・あらゆる種類の自発性や個性は、それがいかに非政治的であっても、抗議の一形態となった。
 こんな自発性までもだ。
 新しく建設された製鉄の町々では、仕事の後で劇場に行かずにパブや非合法売春宿に足しげく通う労働者を、心配した役人達は報告した。
 若い人々は、きちきちのズボン(drainpipe trouser)<(注18)>、ダックテール<(ducktail quiff)(注19)の髪型>、キッパー・タイ<(注20)>、ダグラス・マッカーサー将軍がかけていたサングラスの型であったことから命名された、マカルターキ<(makarturki)(注21)>、を見せびらかし始めた。
 (注18)http://www.google.co.jp/search?q=drainpipe+trouser&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=oGOGUNnCKcmemQXQioDICw&ved=0CCwQsAQ&biw=1920&bih=919 ←画像
 (注19)「イギリス、ロンドンにある大通り、ウエストエンドの「リージェント・ストリート (Regent Street) 」<のリーゼント(regent style)・・英国ではクイッフ(Quiff)・・>の名前の由来<は、>両サイドの髪を撫で付け、後頭部でIの字型にぴったり合わせた髪型を上から見た流れ(両側頭部から流し、後頭部で合わせる)が、この大通りの軌道(膨らんで合流)に似ていることから<きている。>(前髪を指すものではない)。・・・1950年代のロックアンドローラーやロカビリアンの髪型は頭頂部をフラットトップ(頭頂部を短く刈り込んだスタイル)にし、後頭部をリーゼントまたは大変お洒落な「ダックテール」(ducktail:後頭部で髪を合わせた容がアヒルの後ろ姿に似ていることから)というデザイナーズスタイルが流行した。リーゼント、ダックテール共に櫛で後頭部に縦筋を入れたアルファベットのIの字型 (後頭部上部から襟足までぴったりと合わせた容)である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88
http://www.google.co.jp/search?q=quiff&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=t2aGUNH5IYPomAXmjIDICg&sqi=2&ved=0CEMQsAQ&biw=1920&bih=919 ←画像
 (注20)http://www.google.co.jp/search?q=quiff&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=t2aGUNH5IYPomAXmjIDICg&sqi=2&ved=0CEMQsAQ&biw=1920&bih=919#hl=ja&tbm=isch&sa=1&q=kipper+tie&oq=kipper+tie&gs_l=img.12..0i19l2j0i5i19.81790.84627.0.86267.1.1.0.0.0.0.189.189.0j1.1.0…0.0…1c.1j2.D7BrpHbmycM&pbx=1&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_qf.&fp=b120dcaab62fb325&bpcl=35466521&biw=1920&bih=955 ←画像
 (注21)http://www.google.co.jp/search?q=quiff&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=t2aGUNH5IYPomAXmjIDICg&sqi=2&ved=0CEMQsAQ&biw=1920&bih=919#hl=ja&tbm=isch&sa=1&q=makarturki&oq=makarturki&gs_l=img.12…63970.67151.2.68364.1.1.0.0.0.0.79.79.1.1.0…0.0…1c.1j2.kxDcP-G_i-g&pbx=1&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_qf.&fp=b120dcaab62fb325&bpcl=35466521&biw=1920&bih=955 ←画像
 どんどん厳重になったソ連による国境管理をものともせず、ドイツでは、何十万もの人が東独から西独へと国境を越えた。
 どこでもかしこでも、人々はひどく風刺的なジョークを語った。・・・」(D)
→放蕩や奇抜な服装が抵抗の形態たりうる、というのは分からないでもないけれど、深刻かつ痛ましい話ですね。(太田)
(続く)