太田述正コラム#5828(2012.11.6)
<フォーリン・アフェアーズ抄(その9)>(2013.2.21公開)
1 始めに
 コラム#5822でロシアを取り上げたところ、TAさんが、参考にということで、ロシア関係の以前の論考2つを送ってくれたのですが、そのうちの1つから抜粋してご紹介することにしました。
2 FSB
・アンドレイ・ソルダトフ&アイリーナ・ボローガン「ロシアの新エリート層」(注一)(2010年12月より)
 (注一)原題が ‘Russia’s New Nobility’ なので、直訳した。日本語版では題が「ロシアの政治・経済を支配するシロヴィキの実態–連邦保安庁というロシアの新エリート層」となっていたが、採用しなかった。
 ちなみに、共同執筆者は、どちらも、Agenture.Ruの共同設立者です。
 「・・・FSBの予算は公表されていないものの、控えめにみても、20万を越える人々を雇い入れている。・・・
 2000年に<元FSB長官の>プーチンが大統領に選ばれた<が、彼>は<FSB>に新しく、より危険な役割を課した。かつてのKGBのオフィサーだったプーチンは、自分が信頼できるのはFSBだけだと考え、FSBにモスクワの政治支配体制の安定、ひいては国家の安定を守ることを任務として命じた。こうして、この10年間で、国家機関、国営企業の要職の多くにFSBの人材が任命された。
 権力を拡大していくにつれて、FSBは政治や社会<について>自由に議論できる空間を着実に狭めていった。スパイ容疑で多くの科学者に過酷な判決が下され、ロシアの科学者コミュニティを締め付けただけでなく、外国政府のために活動していると決めつけて非政府組織(NGO)の活動を制限し、ロシアのジャーナリストを厳格な監視体制の下に置いた。・・・
 ソビエト時代のKGBは非常に大きな力を持つ組織だったが、それでも政治構造の枠内に置かれ、共産党がKGBをあらゆるレベルで監視していた。だが、KGBとは違って、今日のFSBは、外<の機関>からの干渉を受けない。
 FSBは、ソビエト時代の秘密警察や欧米の情報機関とはまったく違う組織になった。ある意味では、アラブ世界の多くの国でみられる手荒な秘密警察、ムクハバラット<(注二)>に似ている。体制を守ることを目的とするこの組織は権力者に対してだけ責任を負い、外からの干渉を受けず、必然的に腐敗している。テロや反体制運動に関わっている疑いのある個人や集団に残忍な扱いをしている。・・・
 (注二)ローマ字表記は不明。ムハラバートのことではないかと思われるところ、レバノン、カタール、エジプトにこの名称の、ないしこの名称をその一部に含む情報機関がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%A9%9F%E9%96%A2
→このくだり、執筆者達が何を言わんとしているのか必ずしも定かではありません。(太田)
 <現在のFSBに至る歴史だが、>エリツィン<大統領とそ>の側近の多く<は、>情報治安当局を管理していくには、厳密に責任範囲を分割するしかないと考えていた。分割後に新たに誕生した最大の組織は(保安局)保安省で、対敵諜報と対テロを担当した(保安省が後に連邦防諜省(FSK)になり、そして1995年にFSBへと改変された)。
 KGBの対外諜報部門は、対外情報庁(SVR)という名称の情報機関とされ、<2010年>6月にアメリカで捕まった11人のロシア人スパイ<(注三)>もこの組織のメンバーだった。電子諜報、暗号解読などを手がける組織はそれぞれ独立した局になった。ソビエトの指導者の身辺警備を任務とするKGB部門も独立した組織にされた。・・・
 (注三)そのうちの一人が、あのアンナ・チャップマン(コラム#4104、5640、5642、5644)だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9E%E3%83%B3
 <その後、FSBは再び情報治安関係の権限を自らに集中させて行ったが、>SVRを完全には組み込めなかったために、FSBは対外情報収集と外国での作戦行動を担当する部局を新たに組織内に立ち上げた。このやり方でFSBは、かつては対外情報庁と軍の情報部に独占されていた領域にも食い込んでいった。・・・
 <その>FSBとロシア正教会は、近年、交流を深めている。・・・
 2002年にカトリックの神父たちはFSBによってロシアから追放され、その一部は諜報活動を行っていたとして告発された(注四)。FSBは、欧米の影響から正教会の勢力圏を守り、一方、正教会は国家の敵と戦うFSBを祝福した。・・・
 (注四)ネット上では断片的な情報
http://www.firstthings.com/article/2007/01/russia-religion-on-a-leash–23
しか得られなかった。
→FSBやプーチンの正教会との関係については、もっと具体的な話を書いて欲しかったところです。(太田)
 警察国家だったソビエト時代には、政府はすべての市民を管理しようと試みたが、より洗練されたロシアの新しい監視システムは選択的な監視体制を取っている。ターゲットにしているのは、政治的野心を持つ個人や反政府的な意見を持つ個人だけだ。・・・
 ・・・ひとたび蜜の味を知ると、<FSB>はさらなる利権を求めて内輪もめを始め、結局、国を支配するニューエリート層は形成されなかった。ロシアの現状と未来に関する共通のビジョンに導かれた指導者集団にはなれなかった、と言い換えることもできる。彼らの動機は、国家ではなく、個人レベルに存在したからだ。・・・プーチンによって行動の自由を認められたロシアの情報治安当局のメンバーは、政治領域であれ、経済領域であれ、自分たちの個人的な利益を追い求めだした。・・・
 <その結果、例えばこういうことが起こった。>
 頁岩層に高圧の水を注入する新技術によってヨーロッパ大陸の地下に眠るシェールガス資源開発のポテンシャルが高まり、<ガスプロムによる>ヨーロッパへのエネルギー供給をめぐるロシア側のこれまでの優位は脅かされつつある。
 EU加盟国は消費する天然ガス資源の4分の1をロシアに依存しており、とくにポーランドのロシアへの依存率は高い。だがいまや、専門家は、ポーランドの地下に膨大なシェールガス資源が眠っていると試算しており、エクソンモービル、シェブロンなどの欧米の主要なエネルギー企業はポーランドに熱いまなざしを向けている。
 ・・・エネルギー依存から脱したポーランドがロシアに敵対的になることを懸念したモスクワはワルシャワに対する懐柔路線に転じた。2010年4月、プーチン首相は、長年にわたってポーランドとロシアの関係改善の障害だった1940年のカティンの森<(カチンの森)(コラム#2792、3151、3285、3735、3945、3947、3957、5154、5715)>虐殺事件の式典にドナルド・タスク・ポーランド首相とともに参列した。こうしたモスクワのジェスチャーは、1年前には到底考えられなかった。同月、ワルシャワとの関係が改善するなか、メドベージョフはカティンの森虐殺に関するソビエトの文書67冊をワルシャワに提供した。これも、かつてならおよそ考えられない行動だった。
 一方、カティンの森でポーランドの将校を殺害したソビエトの内務人民委員部を戦争の英雄とみなすFSBが、モスクワによるポーランドへの劇的な路線転換を受け入れたはずはない。・・・
 <すなわち、>最近のモスクワのポーランド路線変更に大きな役割を果たしたのは、FSBではなく、ガスプロム<(注五)>だ<ったのだ>。・・・
 (注五)「ロシアの企業。天然ガスの生産・供給において世界最大の企業である。創設は1993年・・・。半国営の天然ガス独占企業である。・・・国内総生産並びに鉱工業総生産の約8%(2000年)、ロシアの国家税収の約25%(1993年から2003年の間、毎年平均40億ドル以上)を占める。ガスプロムは58の子会社(2002年9月現在)と、約30万人の従業員を抱える。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A0
→このくだりは、単に、本件については、プーチンが、(所管外である)FSBではなく(ロシアの超大・半国営企業としての浮沈がかかっていた)ガスプロムの意見を採用した、というだけのことでしょう。(太田)
 混乱の1990年代にあってもFSBに留まったオフィサーたちは、KGBを分裂に追い込み、ロシアの情報治安当局と国家を弱体化させたのは、欧米に支援された急進派民主主義者たちだと信じ込み、FSBの組織構造に深く根ざす、偏狭な内向きのビジョンにますます埋没していった。・・・
 FSB本部での欧米に対する猜疑心は、セルビア、グルジア、ウクライナ、キルギスの権威主義政権を覆した2000年から2005年にかけて起きた一連のカラー革命(民主革命)によってますます高まった。FSBはこうした展開を欧米の陰謀とみなし、次の標的にされるのはロシアとその同盟勢力だと考えるようになった。
 国の擁護者としての役割を正当化しようと、FSBはモスクワの懸念にうまくつけ込んで、問題は外国の情報機関が国内のNGOを支援して暗躍していることにあると批判した。こうしてロシア国内のNGOが監視と抑圧の対象にされ、その結果、モスクワの政策を批判する独立系の情報は大幅に減少した。
 同時に、FSBは何とか中央アジア政府の支持を勝ち取ろうと試みている。モスクワもこの地域でのアメリカやNATO部隊のプレゼンスを、19世紀のグレートゲームの延長とみなしている。・・・
 ロシアの情報治安当局は、テロとの戦いにおける敵の本質を見誤っていたようだ。ゲリラ戦に直面したFSBは、アスラン・マスカドフ、シャミール・バサエフ、セリムハン・ヤンダルビエフを含む、チェチェンの軍閥と指導者を排除する作戦を遂行した。だが、指導者たちを一掃しても、結局は、新たな指導者が誕生させただけだった。こうしてFSBは、ロシアのイスラム勢力の蜂起には欧米の情報機関が関係しているとみなす考えに取り憑かれるようになり、現実にそう主張するようになった。その結果、欧米の情報機関が、ロシアから脱出した武装勢力のメンバーを拘束し、ロシアに引き渡してくれる可能性さえ潰してしまった。
 手詰まり状況に陥ったFSBは、外国に逃げた武装勢力の暗殺作戦を展開するようになり、例えば、2004年にカタールで、ヤンダルビエフ<(注六)>を暗殺している。・・・
 (注六)1952~2004年。「1996年4月・・・、<独立チェチェンの大統領>ドゥダエフの死<の後、>大統領・・・。5月27日、<ロシアと>停戦協定に署名・・・1997年1月・・・、チェチェン大統領選挙に敗北し、・・・2000年頃、・・・自分の家族と一緒に、カタールのドーハに移住した。・・・2004年2月・・・、ヤンダルビエフは、車に仕掛けられた爆弾により暗殺された。・・・カタール当局は、ロシア情報機関職員と思われる3人のロシア人を拘束し、その内、2人は殺人容疑で終身刑を言い渡された。判決以降ロシア政府は彼らの身柄引渡を求めていたが、2004年12月、カタール政府が送還に応じ・・・た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%95
  例えば、元FSBのエージェントで(イギリスに亡命した)アレキサンドル・リトビネンコ<(リトヴィネンコ)(コラム#1518、1529、1531、1533、1547、1563、1656、1657、1695、1870、1873、2504、2508、2732、2748)>が2006年にロンドンで毒殺された事件は、メディアで大きく取り上げられ、イギリスとロシアの関係を緊張させた。4人のイギリス人外交官がモスクワから追放され、両国は、対テロ作戦に関する協調を停止した。・・・
→以上についても、単にプーチンの意を体して、FSBが、(必要に応じ、プーチンの了解を取り付けつつ、)企画し実行した、というだけのことでしょう。(太田)
 ロシアにとって法の支配が確立されるのは遠い将来の話になるだろう。情報治安当局は、自分たちの利益、そして自分たちが守ろうとしている国の利益は法を越えた部分に存在すると考えているからだ。・・・」
→翻訳ミスである可能性がありますが、ここに出てくる「法の支配」は「法治主義」でなければなりません。(太田)
3 終わりに
 現在のロシアを国家マフィア主義と喝破したエドワード・ルーカスの本の存在を知った(コラム#5638)のでなおさらですが、本論考は、整理が悪く分析も陳腐であると思います。
 しかし、本論考中、FSBの歴史が記されている部分については、それなりに参考になりました。
(第4部完)