太田述正コラム#5874(2012.11.29)
<陸軍中野学校終戦秘史(その9)>(2013.3.16公開)
 「ジャワでも、ベトナムの武器騒動に似た騒ぎがあった。・・・スカルノ<(注19)>、ハッタ<(注20)>など、独立運動の指導者が、独立宣言の文案起草や新憲法制定の準備に追われているところへ、終戦の報せだ。・・・<彼らは、>急遽8月<17>日に独立を宣言<(注21)>すると・・・やがて進駐する連合軍と対決のための武器と、日本軍の独立義勇軍への参加を求めた。・・・
 (注19)Sukarno。1901~70年。1926年にバンドゥンの高等工業学校(現在のバンドン工科大学)卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E
 (注20)モハマッド・ハッタ(Mohammad Hatta。1902~80年)。ロッテルダム商科大学学士・修士。「1945年8月17日のインドネシア「独立宣言」にはスカルノとともに署名。その後、オランダとの独立戦争では首相・外相・国防相をつとめ、とくに外交面で主導的な役割を担った。・・・独立後、スカルノ大統領、ハッタ副大統領とする「双頭体制」(このときの正副大統領の両者は実質的に対等であるとされていた)で最初期の国家運営に重要な役割を演じたが、次第にスカルノと対立。1956年に副大統領を辞職。その理由がハッタ本人から語られることはなかった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF
 (注21)「日本の戦局が悪化してくると、1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月14日に日本が降伏を予告したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止された。
しかし、日本が降伏した2日後の8月17日、今度はスカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、・・・スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
 <時を遡って、蘭印攻略直後のことである。>
 柳川宗成中尉<(終戦時少佐)は、「>・・・インドネシア青年を集めて、中野学校式のものをジャワにつくること<になった。>・・・16歳から22歳までのインドネシア青年50名を集め、<特務>機関から<と>・・・一般部隊から<とで>教官<、通訳を確保し、>ジャワ<の>タンゲランで・・・起居をともにして教育にあたった。
 私は、・・・<この>タンゲラン青年道場開場式<において、>・・・次のような意味の挨拶をした。
「諸君は選ばれたインドネシア青年として、一日一刻も早く、われわれから学び得るすべてのものを学び、強く、正しく、新しいインドネシアを解放してもらいたい。我々のアジアは、われわれの手で解放しよう。
 諸君には、オランダ圧政下300数十年の遅れがある。それをもっとも短い期間で、一気にとりもどさなければならない。これはまったく無理なことだが、その無理を承知の上でやり抜かなければならないのだ」・・・
 私はすべての課程に関して、日本人職員幹部の率先垂範を要求した。・・・当初一か月は、日本人職員もいっさい公務以外の外出は禁じた。・・・<」と語っている。>
 <また、>当時、柳川中尉の下で、副校長格の教官だった熊谷正男軍曹(終戦時准尉)は、
「情報を完全に蒐集するには、どうしても現地人の密偵を養成しなければならないということになり、今一つには将来のジャワ独立ということも考えて、青年道場の発足となった。・・・我々が中野学校で教わったことを、そっくりそのまま教え、同時に軍事教練をした。それが発展して、・・・義勇軍養成所となり、州長、市町村長などの推選と、募集で集めた青年を試験採用し、最後に義勇軍<(注22)>をつくった。・・・
 (注22)郷土防衛義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA)。「1943年10月、日本軍政下におかれた東インド(現在のインドネシア)のジャワで、民族軍として結成された軍事組織である。同様の組織は、バリ島、スマトラ島にも結成され・・・終戦時には、66大団、約3万6千人の規模となっていた。このなかには、旧植民地軍出身で、そこでの実績を買われて小団長に任命されたスハルト(後のインドネシア第2代大統領)の姿もあった。スハルトはその後、中団長に昇進し、インドネシア人士官らの訓練にもあたった。
 こうして設立された民族軍ではあっても、占領期間中は日本軍の指揮下に置かれ、軍事訓練等は日本軍の指導の下に実施された。訓練はすべて日本軍の歩兵操典を基準にしておこなわれた。・・・軍事訓練とともに重視されたのは精神教育であり、そこでは日本軍の軍人勅諭が用いられ、祖国のための自己犠牲の尊さ、闘う勇気などについて、インドネシア人青年は徹底的に教え込まれた。・・・
 日本の敗戦後、1945年8月19日付で解散されたが、この郷土防衛義勇軍出身のインドネシア人が、その後のオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)で、インドネシア側の武装勢力で中心的な役割を担った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%9C%9F%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%BE%A9%E5%8B%87%E8%BB%8D
 だいぶ前に調べたところでは、マカッサルの軍司令官、東方軍の司令官、参謀総長も青年道場出身者だったし、軍官学校長もそうだった。・・・
 インドネシアという国は、日本をものすごく信頼し、期待をかけている。したがって戦争中も宣撫がうまくゆき、比較的平穏だった。(注23)・・・
 (注23)「「インドネシアと日本軍政」についての研究は、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった。その一方で、日本軍政が現地社会の分裂や対立を先鋭化させたと結論づける研究もある。・・・
 <日本では、>1986年<に発表された、>谷川栄彦(九州大学)の・・・日本による戦争と占領は、少なくとも現地の民族主義運動を「加速化」させる「触媒」の役割を果たしたという、いわゆる触媒説<がある。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
 終戦時には、・・・日本軍から武器をとりあげ、独立戦争をやろうというので、そのための犠牲者が相当出た。たしか、日本軍の、戦争中の戦死者は700人内外にすぎなかったが、終戦の武器騒ぎでは、それ以上の人間が死んでいるのではないだろうか。しかしそれも、バンドン地区司令官の馬渕少将の作戦で、インドネシア軍が日本軍の兵器庫を襲い、掠奪していったという形をつくることにより、インドネシア側に提供されて収まった。・・・<」と語っている。>
 インドネシアの場合、・・・独立運動支援のために武器を持ったまま義勇軍に加わ<った>者・・・の数は通常3000人といわれ、1000人がオランダ軍との戦いで独立義勇軍の兵士として戦死、1000人がインドネシア独立後に日本へ帰国、1000人がインドネシアに帰化したといわれる。帰化組は国の英雄とされ、死亡後は国立英雄墓地に埋葬されている。・・・」(621、627~634)
→インドネシアの戦後のオランダからの独立は、あらゆる意味で、日本の蘭領東インドの占領抜きにはありえなかったわけですが、オランダからの独立戦争を戦った部隊の前身が日本の占領下につくられた義勇軍であったことは比較的良く知られているところ、その更に起源が、インドネシア版中野学校であったということは、実に興味深いですね。(太田)
(完)