太田述正コラム#5916(2012.12.20)
<米墨戦争と米国の人種主義(その2)>(2013.4.6公開)
 (2)米墨戦争
 「・・・その独立戦争が終わった1821年から1845年まで、メキシコは50人近い大統領をとっかえひっかえしてきていた。
 1846年のメキシコは、グァテマラからサンフランシスコ北方の北緯42度まで、そして、太平洋からメキシコ湾と北部ロッキー山脈に至、る領域群を有する、バラバラの諸国家の脆弱な集合体だった。
 (新しく獲得された領域群が奴隷諸州になるのではないかと心配したところの熱心なホイッグ党員達と奴隷制廃止論者達を除いた、)相当多くの民衆の支持の下、ポークの戦争は、弱体化したメキシコを屈服させ、大陸にまたがる米超大国を速やかに創造した。
 <しかし、>成功はしたものの、ポークの戦争は政治的には重荷(albatross)<(注3)>になった。
 (注3)albatross(アホウドリ)に、例のゴルフ用語以外にそんな意味があり、それがコールリッジの詩に由来する
http://en.wikipedia.org/wiki/Albatross
とは知らなかった。英語の奥行は深い。
それは、米国のあらゆる戦争中、最高の逃亡率と死傷率をもたらすとともに、この国に最初の反戦運動を族生させた。
 そして、究極的には、それは、分裂した米国をして奴隷制についてのその根深い紛争を解決することを強い、リンカーンをホワイトハウスの主にし、そして、はるかに破壊的な南北戦争に火をつけた。」(C)
 「・・・クレイとリンカーンによる戦いの最も名だたる同盟者は奴隷制廃止論者達だった。
 彼らがこの戦争に反対したのは、それが米国に、より多くの奴隷制領域をもたらすと信じたからだ。
 これは、彼らが1845年にテキサスを併合することに反対した理由と同じであり、このテキサス問題は、米国とメキシコの間の主要争点の一つであり続けていた。
 奴隷制を拡大することが、本当にポークの意図であったのかどうか・・彼は生涯奴隷所有者だった・・については、歴史家の間でいまだに議論のもとになっている。
 しかし、彼は、間違いなく、米帝国を太平洋岸まで拡大する意図は持っていた。
 それを達成することを可能にする戦争を引き起こそうと願って、1846年2月に、彼は、コーパス・クリスティ(Corpus Christi)<(注4)>に駐留していた米軍部隊に対し、ニューシズ(Nueces)川<(注5)>の南の係争領域(Disputed Territory)<(注6)>へと前進するよう命じた。
 (注4)「ラテン語で「キリストの体」という意味」。現在の米「国テキサス州南部に位置する<町>。メキシコ湾の一部、コーパスクリスティ湾に位置する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3_(%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%82%B9%E5%B7%9E)
 (注5)地図参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Nueces_Watershed.png
 「テキサス革命が終わる前から、メキシコは、ニューシズ川をテキサスとその他のメキシコとの境界と認識していたが、テキサス共和国は、サン・ジャシント(San Jacinto)の戦いで敗北した後にリオ・グランデ川
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E5%B7%9D >
境界に合意したところの、メキシコ大統領サンタ・アナ(Santa Anna)によって調印されたヴェラスコ(Velasco)条約を引用しつつ、リオ・グランデ川をそのメキシコとの境界であると主張した。この紛争は、米国によるテキサス併合の後も続き、米墨戦争の原因の一つとなったが、グアダルーペ・イダルゴ(Guadalupe Hidalgo)条約によってこの紛争は終止符を打たれ、メキシコは米国の圧力の下、リオ・グランデをその北方の境界として認めた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Nueces_River
 (注6)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wpdms_republic_of_texas.png
 2か月後に、マリアノ・アリスタ(Mariano Arista)将軍が指揮するメキシコ軍部隊がリオ・グランデの近くで米軍の斥候隊を包囲し多数の米兵を殺害すると、ポークは、大統領就任時から求めて呼ばわっていたところの、侵攻を始めるために必要としていた口実をついに得た。
 5月に、彼は米議会に公式にメキシコに対して宣戦布告をすることを求めた。
 米軍は、テキサス、カリフォルニア、そしてヴェラクルスの3方面からアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ(Antonio Lopez de Santa Anna)<(注7)(コラム#1759)>の軍に対して攻勢をかけた。
 (注7)1794~1876年。「ベラクルス州・・・のクリオーリョの家庭に生まれる。16歳で軍人の道を選びメキシコ独立戦争では副王軍騎兵隊将校として独立派と戦い頭角を現した。しかし、・・・敵に寝返り、・・・その後の政権に対しても協力と寝返りを繰り返したが、1829年に再征服を狙って侵攻してきたスペイン軍を・・・破り、国民的英雄になった。」[クリオーリョ・・・とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。]「<彼は、>1833年から1855年までの間に7回も大統領に選ばれた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A7 ([]内)
 米国は主要戦闘の大部分に勝利し、メキシコシティを占領した。
 しかし、この紛争は極端に血腥くかつ高価なものについた。
 米軍の死傷率は、今日に至ってさえ、いかなる米国の戦争よりも高く、13,000人を超え、全米軍の約17%に達した。
 <また、>大部分が一般住民であったところの、約25,000人のメキシコ人もまた亡くなった。
 1848年2月2日に調印された、グアダルーペ・イダルゴ条約は、メキシコ政府に1,500万米ドルと引き換えにその領土の525,000平方マイルを<米国に>引き渡すことを強いた。
 米国の戦争タカ派達の多くはメキシコ全ての併合を求めた。
 ポークはこの国の3分の2近くを没収したいと思っていた。
 しかし、『邪悪な戦争』の中で、グリーンバーグは、クレイとリンカーンの頑強な反対が世論と議会世論を鋭く動かしたため、ポークは半分の没収で手を打たざるをえなくなった。
 メキシコは、現在のテキサス、カリフォルニア、ニュー・メキシコ、コロラド、ネヴァダ、ユタ、オクラホマ、カンサス、そしてアリゾナの大部分、「のみ」を割譲しなければならなかったのだ。・・・」(D)
→米墨戦争そのものの私の評価については、コラム#1759に記したのでここでは繰り返しません。(太田)
(続く)