太田述正コラム#5962(2013.1.12)
<大英帝国論再々訪(その8)>(2013.4.29公開)
  エ 終焉
 「1815年から1914年までの「帝国の世紀」の期間において帝国を可能にしたものは、「世界史上の偶然(accident)」、すなわち、欧州における勢力均衡と外国からの侵入(incursion)に抗するには弱すぎた東アジアのコンビネーションだった。
→例えば、アフリカの植民地化の進展について、これだけで説明できるとは思えません。(太田)
 第一次世界大戦は、欧州における均衡を掘り崩し、東方における日本の隆盛へと導いた。
 第二次世界大戦、とりわけ1939年から1942年にかけての英国の一連の敗北が、仕事を完了させた。
 日本の諸勝利は、アジアにおいて白人の威信(prestige)を破壊したし、欧州の均衡は今や米国に依存することとなった。・・・
→「「英国の世界システム」を崩壊させたことに関しては、正犯は日本、従犯は米国」と申し上げたことを、ダーウィンないし書評子が自分で認めてくれていますね。(太田)
 しかし、大英帝国は、「かくも多様な形で想像され経験され」えたが故にこそ、「公衆の無関心的雰囲気の只中で」戦後の何年かの間に、例えば、ベルギー、フランス、或いはポルトガルのように、トラウマによって傷つけられることなく、終焉を迎えることができたのだ。
 帝国的な英国は、さしたる心理的混乱(dislocation)なしに、欧州という大陸沖の小さな島へと変貌することができた。」(F)
→これについても、既に私の考えを申し上げたところです。(太田)
 「仮に、恵み深い地政学的環境が19世紀の帝国の基岩盤だったとすれば、1940~42年の地政学的諸災難の目録こそ、英国の世界システムを決定的に崩壊させたものだった。
→ドイツによるフランス占領はもとより、ロンドン大空襲等があった1940年など、ためにする韜晦と言うべきですし、1944年の対英領インド作戦(インパール作戦)を含めないのはいかがなものかと思います。1941年末から1942年にかけての日本の東南アジア席巻、及び1944年のインパール作戦こそが「英国の世界システムを決定的に崩壊させた」のです。(太田)
 この帝国が、これらの逆境(reverse)がなかった場合にずっと長く持ちこたえられたかどうかを答えるのは困難だ。
 <いずれにせよ、>英国にとって、インドを統治することは着実にむつかしくなってきており、インド抜きでは、1956年のスエズでの災厄に至るまで核心的国家利益であるとみなされていたところの、中東における英国の覇権を維持することはどんどん不可能になってきていた<ことは確かだ。>」(E)
→以前から、たびたび申し上げてきたところですが、日本が決行したインパール作戦こそが、インド解放のダメ押しの一撃となったのです。
 そして、インド解放なかりせば、大英帝国の崩壊・・正確には、英国の延長たる植民地以外の主要植民地の喪失・・は、少なくとも戦後すぐには生じえなかったのです。(太田)
 「過去600年にわたって、英国の帝国的拡大を、他国のそれ、及びより一般的には全球的歴史の文脈の中に位置づけて、・・・それに照らせば、大英帝国は、確かに違って見える。 
 最初に押さえるべきことだが、他の大部分のケースと同様、英国の統治者が一方にいて、植民地の犠牲者達がもう一方にいる、という単純な話ではないのだ。
 それでは、その活発かつしばしば積極的であったところの、そのプロセスへの参加が枢要であった、「犠牲者達」を貶めてしまう。
 いや、むしろ、<「プロセス」ではなく、>「諸プロセス(複数)」と言うべきだろう。
 というのも、ダーウィンは、いかにたくさんの、同じ時点においてさえも(3つか4つの)大いに異なる「大英帝国群」が存在したか、そしていかに、大英帝国と人々の帝国主義についての「諸ヴィジョン」が年とともに根底的に変化して行ったか、についても強調するからだ。
 大英帝国は、体系的に組織されたことは一度もなかった。
 それこそが、あるドイツの評論家の言葉で言えば、「イギリスの弾力性」であって、大英帝国に持久力を与えたのだ。
 しかし、いずれにせよ、この持久力はそれほど大したものではなかった。
 英国のそれは、大部分の帝国に比べて短い帝国だったが、まことに単純にも、運(luck)が尽きた(turned)時、劇的に崩壊した。
→米国との間の国力の逆転と国力差の急速な増大も、日英戦争も、英国の「運が尽きた」という形容は誤りであって、前者は必然であった、また、後者は英国自身が運をドブに捨てた、と形容すべきでしょうね。(太田)
 20世紀の初期の偉大なる地図群は、英国の赤色をその4分の1に跳ね飛ばして<描かれて>いたけれど、もちろんこれは、ひどく誤解させるものだった。
 (この本のタイトル<・・未完の帝国・・>はだからこそなのだ。)
 1947以降の英国の文明的にして「管理された(managed)」非植民地化という観念も「神話」以外の何物でもなかった。
 (非植民地化は、ダーウィンの最初の研究の採炭切羽だった。)
 <英国の>帝国主義には単独の形態(pattern)はなかったし、それ自体で特徴付けたり説明したりするところの、全体を覆う(over-arching)「理論」ないし一般化・・これぞ、しばしば「理論」が意味するところだ・・の初歩すらなかったし、それについて、全ての側面(aspect)をカバーするような道徳的判断を我々が行うこともまたできなかったのだ。」(D)
(続く)