太田述正コラム#6060(2013.3.2)
<映画評論36:レ・ミゼラブル(その3)>(2013.6.17公開)
 (4)映画のテーマ
 さて、いよいよ肝心の映画についてです。
 私は、この映画は、原作はもとより、ミュージカルとさえ、中心的なテーマは違う、と考えています。
 このことを、映画化にあたっての、この映画の制作陣の存念を探ることを通じて明らかにしたいと思います。
 この映画には、ミュージカルから落とされた2曲と、ミュージカルにはなくて新たに作られた曲がある、ということを前に申し上げたところです。
 落とされた曲の一つ目は、悪党のテナルディエが歌っていた「Dog Eats Dog」です。
http://www.youtube.com/watch?v=iHZwRlhn98g
 その歌詞は、要するに、神は死んだのだから悪いことをしてもいいのだ、というものです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Songs_from_Les_Mis%C3%A9rables
 この曲を落とした理由は、神は決して死んでいないと言いたかった、ということでは恐らくないでしょう。
 皮相的には、それは、悪いことをすれば神に罰せられ、善行を積めば神に嘉されるというカトリック的発想・・それが言い過ぎならば、矮小化された、ないしはルター出現以前のカトリック的発想・・を否定したかったのであり、かつそのコインの反面である、人が救われるかどうか(=天国に行けるかどうか)はあらかじめ定まっているという、プロテスタント的発想を肯定したかったのである、ということになりそうです。
 しかし、それは、より根本的には、自己の言動の言い訳に神を持ち出すな、ということであり、この映画は、ミュージカル(ひいては原作)とは違って、キリスト教劇・・より一般的に言えば宗教劇・・ではない、ということなのではないでしょうか。
 (とはいえ、キリスト教的寓意は、この映画の随所にちりばめられています。
 世界のキリスト教徒を念頭に置いたマーケティング戦略も放棄していない、といったところでしょうか。
 例えば、この映画の中で、ジャンバルジャンが二度も大きな材木を担ぎ上げる場面が出てきますが、その一度目の画面を取り上げて、これはジャンバルジャンを(刑場に到着するまで自分の十字架を担がされた)キリストに擬したものだ、とNYタイムスの映画評(前掲)が記していました。
 この二つの画面の片方ないし両方が、原作に由来するのか、ミュージカルに由来するのか、それとも映画のオリジナルなのか、知りたいところです。)
 落とされた曲の二つ目は、コゼットが独唱していた「I Saw Him Once」です。
http://www.youtube.com/watch?v=Tp7BgC-BRuo
 その歌詞は、要するに、コゼットによる、(ナポレオン主義革命グループの一員たる)ポンメルシー
http://en.wikipedia.org/wiki/Les_Mis%C3%A9rables
に一目惚れした旨の独白です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Songs_from_Les_Mis%C3%A9rables 前掲
 この曲を落とした理由は明白でしょう。
 この映画においては、ミュージカル(ひいては原作)とは違って、(利己的な愛であるところの)恋愛はテーマとは関係が殆んどないよ、ということでしょう。
 (大体からして、ジャンバルジャンの(無償の)愛(後述)の対象たるコゼットに、ナポレオン主義革命グループの一員などという、イギリス人的には二重に碌でもない男を一目惚れされちゃあ困るわけです。)
 次に新しく作られた曲の「Suddenly」です。
http://www.youtube.com/watch?v=5TiEVEn4TTY
 キャスティングが行われていた最中の2012年2月、(ミュージカルとこの映画の製作者たる)マッキントッシュが、わざわざ、この曲のタイトルとその歌詞の趣旨を発表した(E)ことは、この曲がいかに重要であるかを意味しています。
 後に、わざわざ、この曲について、マッキントッシュ、監督、作曲者、作詞家、英語作詞家が解説する映像
http://www.youtube.com/watch?v=lByktzXZmAk
まで作られており、マッキントッシュと監督と英語作詞家は、ジャンバルジャンにコゼットに対する(無償の)愛の思いを語らせる必要があると思った旨を語っています。
 (それに対し、フランス人たる作曲者と作詞家は、この曲が新しく作られた理由について、首をかしげざるをえない技術的な説明を行っています。)
 この映画には、(もちろん、ミュージカルにも原作にも、)ジャンバルジャンのファンティーヌ(=コゼットの母親たる職工/売春婦)に対する(無償の)愛も登場するわけですが、これは恋愛に転化しうるアブナイものであるところ、ファンティーヌの死によって(無償の)愛として完結し、ジャンバルジャンの(無償の)愛の対象はコゼットに移行し、彼自身の死までこの愛は貫かれます。
 ここで、コゼットが彼の実の娘ではないことがミソなのです。
 実の娘であれば、(無償の)愛を貫く父親はざらにいるでしょうが、彼女が実の娘ではない、つまり自分の遺伝子を継承していないからこそ、ジャンバルジャンがコゼットに対して貫く(無償の)愛は利他的であって美しいのです。
 もっとも、コゼットとポンメルシーがお互いに一目惚れしあって恋愛関係に陥り、結婚するに至ったおかげで、ジャンバルジャンは彼女に対する(無償の)愛を貫くことができた、という斜に構えた見方もできそうですが・・。
 (私には、光源氏と六条御息所の娘(養女にした)との関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80
を思い起こさせました。)
 この映画では、(ミュージカル、ひいては原作同様、)ミリエル司教のジャンバルジャンに対する(無償の)愛とジャンバルジャンの警官たるジャヴェールに対する(無償の)愛も描かれるところ、映画のテーマが(無償の)愛であることは、一見明らかであるかのようです。
 しかし、私に言わせれば、この映画のテーマは、利他的な(無償の)愛ではなく、人間主義なのです。
 以上に述べたことに加えて、一つには、先ほども述べたように、この映画は、コゼットとポンメルシーとの恋愛を一挿話へと退けているからです。
 もう一つには、この映画は、(ミュージカル、ひいては原作同様、)革命に命をかける若者達を描いているからです。
 もう一つは、これがキモなのですが、ジャンバルジャンのジャヴェールに対する利他的な(無償の)愛など聖人でない我々一般人にとっては到底実行不可能であり、しかも、これは決して珍しいことではありませんが、そのような愛を注がれたジャヴェールは煩悶して自殺するという悲劇がもたらされてしまう(D)ことが、この映画(ミュージカル、ひいては原作)で示されるからです。
 そもそも、ミリエル司教のジャンバルジャンに対する利他的な(無償の)愛からして一般人にとっては到底実行不可能であり、そのような愛を注がれたのが、これまたジャンバルジャンという、まことにもって稀有な人物であったからこそ、悲劇がもたらされることなく、司教もジャンバルジャンも二人とも浮かばれたのです。
 これに対し、ジャンバルジャンのファンティーヌやコゼットに対する(無償の)愛なら、たとえ非人間主義的な社会に生きている一般人にとっても実行可能性がありそうでしょう。
 このことにもうちょっとで気付きかけているように思えるのが、ロサンゼルスタイムスの映画評です。
 「<この映画を見に>映画館に神不可知論者(agnostic)として出かけたら、賛美歌を歌いながら出て来るかもね。・・・
 <だけど、この映画の>テーマが、人を愛することは神を愛することだ(to love another person is to see the face of God)ということだとすれば、まさに物笑いの種だと言わざるをえないな。」
http://www.latimes.com/entertainment/movies/moviesnow/la-et-mn-les-miserables-20121225,0,7403253.story
と記しているからです。
 アングロサクソン文明は日本文明に次いで人間主義的な文明である、というのがかねてよりの私の見解ですが、日本においてこそ、「もののあはれ」だの「人間(じんかん)」だのといった人間主義の本質を表す言葉があるけれど、アングロサクソンには存在しないために、制作者達も映画評論子達も、この映画のテーマを的確に伝えることができていないように思われます。
3 終わりに
 とまれ、この映画は、機会があったらぜひご覧になることをお勧めします。
 ワシントンポストの映画評でも、「映画の玄人(the most inured audience members)でも、この物語の、悲劇的なヒロイン達、気骨ある(plucky)革命家達、そして理想主義的な若い恋人達に対して、大粒の涙を流すことは請け合いだ。」
http://www.washingtonpost.com/gog/movies/les-miserables,1214741/critic-review.html
と言っていますよ。
(完)