太田述正コラム#6098(2013.3.21)
<映画評論38:ダブル・ジョパディー/陪審員(その1)>(2013.7.6公開)
1 始めに
 Mixiの太田コミュニティに、3月19日、「・・・『ダブル・ジョパディー』を鑑賞した。こりゃ、太田流評論には馴染まないが、純粋に楽しんだね。」。更に、3月20日に、「『陪審員』鑑賞。『ダブル・ジョパディー』と二つ合わせれば、太田流評論、書けそう。」と記したところ、さっそく実行に移しました。
 『ダブル・ジョパディー(Double Jeopardy)』(1999年。米加)のあらすじについては、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
を参照してください。
 この映画は評論家の受けは余り良くありませんでしたが、興行的には成功を収めています。
 なお、Double Jeopardyというこの映画のタイトルは、日本国憲法(第39条)では「二重の危険」と訳されたところの、米憲法修正第5条に出て来る法律用語の完全な誤用です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Double_Jeopardy_(film)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BA%8B%E4%B8%8D%E5%86%8D%E7%90%86
 プロットに諸所不合理なところがあるのは気になりましたが、私にはそれなりに面白かったです。
 主演女優のアシュレイ・ジャッド(Ashley Judd。1968年~)(注1)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
も大変魅力的でした。
 (注1)悲惨な少女時代を送るが、ハーバード大学大学院のジョン・F・ケネディ・スクール(公共政策大学院)で修士号を取得し、堅実な家庭生活を送るとともに、社会運動家としても活躍している。(ウィキペディア上掲、及び、下掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Ashley_Judd )
 『陪審員(The Juror)』(1996年。米国)の粗筋については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%93%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
を参照してください。
 これは、映画評上も興行的にも、振るわなかった映画です。
 良く名前を聞くわりには魅力がないと感じたところの、主演女優のデミ・ムーア(Demi Moore。1962年~)(注2)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2
は、何とこの映画で、(ジョークの意味合いが強い)ゴールデンラズベリー賞の最悪主演女優賞を受賞させられた、と来ています。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Juror
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%B3%9E
 (注2)やはり悲惨な少女時代を送り、ブルース・ウィリスとのものを含め、ハチャメチャな家庭生活を送ってきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2
 ところが豈はからんや、私は、『ダブル・ジョパディー』よりも、更に楽しく鑑賞しましたがね・・。
2 疑問
 さて、この2本の映画は、それぞれの粗筋をざっと読んだだけで、母親が一人息子を守るために悪い男と対決し復讐する、という、極めて似通った筋であることがお分かりいただけると思います。
 それぞれの日本語ウィキペディアにはそこまでは書いてないのですが、どちらも、母親が悪い男を正当防衛で殺す形で「本懐を遂げる」という点まで一緒です。
 この2本を連続して鑑賞したのは、読者のHNさんから借りた映画の中にたまたまこの2本の映画も入っており、また、それがたまたま続いて並べて収納してあった、というだけのことなのですが、私には、こういう筋は、米国の映画には、結構よくあるのではないか、という気がしたのです。
 他方、日本の映画やマンガやTVドラマで、そういう筋のものは私にはとんと記憶にありません。
 日本の映画はTVで再放映されるものを含めて毛嫌いしてほとんど鑑賞したことがなく、マンガは小学生の時におおむね読むのを止めてしまっていて、アニメはほとんど見たことがなく、TVドラマはNHKの大河ドラマ以外はほとんど見たことがなく、小説は社会人になってからとんとご縁がなくなり、という私の記憶じゃあてにならないこと夥しいものがあります。
 いや、いくらでもあるよ、というのであれば、ぜひご教示たまわりたいのですが・・。
 広い意味での親子の活劇ものということで、私がすぐ思い出したのは次の三つです。
 
 一、マンガの『鉄腕アトム』(1952~68年)、二、映画の『天国と地獄』(1963年)、そして、三、TVドラマの『子連れ狼』(1973~76年。マンガは1970~76年)。
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E8%85%95%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
C:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E9%80%A3%E3%82%8C%E7%8B%BC_(%E8%90%AC%E5%B1%8B%E9%8C%A6%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E7%89%88) (及び下掲↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E9%80%A3%E3%82%8C%E7%8B%BC )
 一については、「アトム<は>・・・お茶の水博士に引き取られた。・・・性格は真面目で正義感が強く、困窮した者には自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる優しい心を持つ・・・複雑な感情を抱けない(芸術や自然への感動や恐怖心がない)という劣等感から、お茶の水博士に人造心臓(『心臓』という名前だが実質は感情面を補助する回路の一種と思われる)を取りつけてもらい人間と同レベルの感情を一時的に得たことがある(その後両親をさらった敵との戦闘で恐怖から体がすくんで手も足も出なくなったため・・・人造心臓を破壊<し>た)。」(A)というのが「親」と「子供」のキャラクターです。
 また、二については、一人息子ならぬ自分の運転手の一人息子を誘拐された人物が、(自分にとって絶対に必要なカネだったけれど、)身代金を払ってその子を解放させた上で、この人物の協力もあり、警察の手によって犯人が逮捕される、という物語です。(B)
 そして、三については、「<主人公の拝>一刀は・・・柳生一族との対立が元で、妻・・・・をはじめとする一族を愛児・大五郎を除き、・・・皆殺しにされてしまう。さらに、・・・将軍家への謀反の疑いをかけられ、拝家はお家断絶に追い込まれてしまい、一刀自身も大五郎とともに切腹を命じられる。しかし、大五郎を連れて江戸を脱し・・・、以降は柳生一門への復讐を果たすべく、大五郎を箱車(乳母車)に乗せて、・・・標的一人につき五百両の報酬を得る・・・刺客を生業として、・・・全国を流浪。・・・この間、・・・拝一族の完全な抹殺と自身の企てた数々の謀略の口封じを図る<柳生一族>の放った・・・剣客や・・・密偵達と戦い、時には重傷を負い、または病に倒れ、大五郎と離れ離れになるも彼等を倒し、大五郎を連れて数年ぶりに江戸に戻る。しかし、<柳生一族の総帥との>決闘の前日に・・・生き残り<密偵>達の襲撃を受け、・・・一刀はついに力尽き<る>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%9D%E4%B8%80%E5%88%80
という筋です。
 この三つとも、父親と一人息子が悪い人達と戦う話ですが、悪い人は女性の場合もありますし、「父」と「子」との関係も、一では養父と一人だけの養子、二では父親役に自ら任じた人物と彼の部下の一人息子、三では父と一人息子、とバラエティに富んでいますし、戦うのも、もっぱら、一では息子、二と三では父、といった具合です。
 もう一点気が付くのは、三でこそテーマは子を守ることであり悪人への復讐である、という限りにおいて、上述の米国の2本の映画とテーマが重なり合うけれど、一も二も、テーマは悪人への復讐ではなく、他人のために悪人を懲らしめる、というものです。
 このような、日米両国の親子活劇物語における大きな違いは、一体どういうことなのだろう、というのが私の抱いた疑問でした。
(続く)