太田述正コラム#0173(2003.10.20)
<イスラム世界のユダヤ観>

 22年間マレーシアに君臨したマハティール首相が、自らの意志で10月末に引退します。
 その彼にとっていわば最後の晴れ舞台であるイスラム諸国会議機構(OIC)首脳会議(マレーシアで開催)の席上、彼はユダヤ人が世界を支配していると演説し、厳しい批判が欧米から寄せられています。
 しかし、会議に出席していたエジプトのマーヘル外相は「欧米の批判を気にすることはない。彼らは発言全文を読んでいない」と述べています。
 (以上、AFP-時事の配信記事。http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=608913(10月18日アクセス))
一体マハティール首相はどのような内容の演説をしたのでしょうか。

1:「半世紀以上にわたって我々はパレスティナ問題で戦ってきた。その結果何を達成しただろうか。ゼロだ。以前より立場が悪くなっただけだ。」(ほぼ同じくだりが演説の後の方でまた出てくる。)
2:「我々の反応と言えば、ただ怒ることだけだった。怒った人間は考えることができなくなる。その結果我々の中から非理性的に行動する者が出てきた。彼らは自己流の攻撃を開始した。彼らの怒りとフラストレーションを発散させるためだけに。そして同胞たるイスラム教徒を含め、無差別に人々を殺している。」
3:「欧州人はユダヤ人1200万人中、600万人を殺害したが、今ユダヤ人は代理人(米国のこと(太田))を通じて世界を支配している。ユダヤ人は代理人をして彼らのために戦わせ、命を失わしめている。」
4:「我々は考える人々と対峙している。彼らは2000年にわたって続いた組織的虐殺(pogrom)の下で、(力で)反撃することによってではなく、考えることによって生き延びてきたのだ。彼らは社会主義、共産主義、人権と民主主義を発明し、これらを広めることに成功した。それは、彼らを迫害することが悪いことだという観念を広め、彼らが他の人々と同等の権利を享受するためだった。」「こうすることによって彼らは、最も強力な諸国家をコントロールするに至り、かくも少人数の社会が世界的権力(world power)となったのだ。」(http://www.dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_20-10-2003_pg7_50。10月20日アクセス)

 その上でマハティールは、イスラム諸国が手を携えて近代化戦略を追求すべきだと述べ、手にした権力とパレスティナ紛争における成功によって傲慢になっているというユダヤ人の弱点を衝くべきだと主張します。

 1はパレスティナ紛争でのアラブ(イスラム)側の敗北宣言であり、2はパレスティナの自爆テロ批判です。この二点をイスラム国の首脳が明確に述べたのは初めてではないかと思います。この二点に関しては、マハティールの見識と勇気に心から敬意を表したいと思います。
 問題は3と4です。3はユダヤ人が世界を支配しているという指摘であり、誤りですし、4はユダヤ人がなぜ世界を支配するに至ったのかの説明であり、やはり誤りです(注1)。

(注1)人権観念は個人主義に由来しイギリス起源(コラム#88??90)だし、民主主義と社会主義はイギリスの個人主義が意図せざる結果として生み出したものだ。(民主主義についてはコラム#91を参照。社会主義については、改めてコラムに書きたいと思っている。)
共産主義はユダヤ人、カール・マルクスがイギリスについての誤解に基づいてつくったイデオロギーであり、ユダヤ人が共産主義を発明したという点だけはマハティールは間違っていない。
 それにしても、かつて英領植民地であった国の指導者にしては、マハティールのイギリス理解はお粗末過ぎる。これは、彼が理科系の教育を受け、かつ英領植民地で育ったエリートとしては異例にも英国留学の経験も英米での長期滞在経験もないためだろう。(彼はシンガポールの医科大学卒の医師http://www.pbs.org/wgbh/commandingheights/shared/minitextlo/prof_mahathirbinmohamad.html(10月20日アクセス)。)

 この反ユダヤ的言辞には、マハティールのマレーシア首相としての苦い経験が影を落としているのではないかという指摘があります。
 例えば、1998年のアジア金融危機に際し、マレーシアの通貨は国際投機筋に売り浴びせられて40%も切り下げられましたが、その時マハティールが名指しで非難したのが投機家でユダヤ人のジョージ・ソロスでしたし、そのマハティールを厳しくたしなめたのが、同じくユダヤ人で米財務長官で元ゴールドマンサックス首脳のロバート・ルービンだった、また、1998年にマハティールが副首相のアンワル・イブラヒムの失脚を図ったとき、米国でアンワル擁護のキャンペーンの先頭に立ったのが米国防長官でユダヤ人のウィリアム・コーエンだった、というわけです(http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/EJ18Ae02.html。10月20日アクセス)。

 いずれにせよ看過ごせないのは、OIC首脳会議に出席していた他の首脳達が異口同音、マハティール演説の内容を当然視するとともに、欧米による批判は不可解だとしていることです。
 冒頭に掲げたエジプトの外相のほか、カルザイ・アフガニスタン大統領やイエメンの外相は、特に熱っぽくマハティール演説擁護発言を行っています。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3203428.stm。10月19日アクセス)

 イスラム文明圏にも欧州ないしアングロサクソン文明圏にも属さない我々は、マハティール演説騒動をどう受け止めるべきでしょうか。
 いいニュースは、全イスラム諸国首脳が、マハティールによるパレスティナ敗北宣言と自爆テロ批判をコンファームしたと解しうることです。とすれば、いまやパレスティナ和平がなるかならぬかは、パレスティナの人々が窓口を一本化した上で具体的な降伏条件をイスラエルに提示できるかどうかだけにかかっているということになります。(この点は、近日中にコラムで詳説します。)
 悪いニュースは、全イスラム諸国首脳が、マハティール同様、歴史と事実を尊重する姿勢がなく、ユダヤ人に対する偏見を抱いていることが改めて明らかになった(注2)ことです。イスラム教を掲げながらも、かつてのオスマントルコが、(あたかも現在の米国のように)ユダヤ人を暖かく受け入れていたのに比べ、何とイスラム諸国は狭量になったことでしょう。
 近代化指標でイスラム諸国の優等生であるマレーシアの偉大なるリーダーが、自分のキャリアの総決算としての演説でこんな形で馬脚を現した(注3)ということは、イスラム諸国全体の将来に暗雲を投げかけるものだと言えるでしょう。

 (注2)サウディの電子新聞アラブ・ニュースが、ユダヤ人は人間の尊厳と最高の倫理を擁護している人々だが、イスラエルという国家はその反対を体現している、としつつも、マハティール演説中の3と4は誤りだ、と批判したこと、また、レバノンのデイリー・スター紙でパレスティナ人のコラムニストが、ユダヤ人とイスラム教徒をそれぞれ一枚岩的存在のように語ったマハティールは、パレスティナ問題解決を阻害するものだと指摘したこと(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A58602-2003Oct21.html。10月22日)には救われる思いがする。
 (注3)米国の経済学者でコラムニストのポール・クルーグマンは、この演説は、練達の政治家であるマハティールが計算し尽くして行ったものであり、イラク戦争と無条件のイスラエル支持によって今やイスラム世界で米国が憎悪の対象となっていることを踏まえ、イスラム諸国を覚醒させ、その変革を促すためにはあえて「激しい」言葉を用いざるを得なかったのだろうと指摘している(http://www.nytimes.com/2003/10/21/opinion/21KRUG.html。10月21日アクセス)が、マハティールの用いた言葉は「誤った」言葉であり、この指摘には同意しがたい。

<読者α>
 今回、コラムに対して少々疑問に思うことがあり、メールした次第です。
#173(2003.10.20)<イスラム世界のユダヤ観> の部分なのですが、マハティールの発言を額面通りに受け取るのはどうか?というものです。

1981年、日本では同盟という言葉が禁句であり、時の鈴木総理が日米共同声明で「日米両国間の同盟関係」という婉曲的な表現を使ったにもかかわらず、メディアは対米追従だと非難し、「軍事的意味合いは全くない」と今からすればよくわからない釈明を余儀なくされました。
 日本における反米勢力、一国平和主義者の声を無視できなかったからと推測します。

同様のことはマハティール発言にも言えないでしょうか。
コラムでも述べられていますように、
>1はパレスティナ紛争でのアラブ(イスラム)側の敗北宣言であり、2はパレスティナの自爆テロ批判です。この二点をイスラム国の首脳が明確に述べたのは初めてではないかと思います。この二点に関しては、マハティールの見識と勇気に心から敬意を表したいと思います。

イスラム国としては異例の自己批判であり、イスラム諸国を刺激しかねない冒険的なものです。また、マレーシアは反ユダヤ的思想の持ち主を多く抱える国でもあります。
イスラム諸国・イスラム教徒を批判する言説を、反ユダヤ的言説で緩和することを意図したことも十分に考えうることだと思われます。

<太田>
>マレーシアは反ユダヤ的思想の持ち主を多く抱える国でもあります

についてですが、これはマレーシアがイスラム国だから、ということなのか、それとも特にマレーシアには反ユダヤ的思想の持ち主が多い、ということなのか、また、後者の場合、その具体例を挙げていただければ幸いです。

<読者β(isaki)>
マハティールについて、一言述べさせて頂きます。
通貨危機の時、私は丁度シンガポールにおりましたので、結構臨場感を持って毎日を送っていました。

アジア通貨危機については、各国共、その対応が大きく異なりました。タイは、IMFのショック療法、通貨下落を受け入れ、インドネシアも基本的には通貨フロートに任せるままとし、結果としてスハルト長期政権が倒れる程の社会変動を生む結果になりました。
マレーシアはその中にあって一人、通貨管理を強化する事で社会の激変を緩和し、漸進的な改革を実施しました。そういう点では、マレーシアはASEAN諸国の中で最も上手くアジア通貨危機に対処したと言えます。

ただ、当時、マハティールの後継者と目されていたアンワル副首相の失脚を巡る事件(ホモセクシャル疑惑)もあり、欧米から強烈な人権問題批判、通貨管理政策批判が行われました。それ以前からマハティールが東アジアへの米国の影響力削減を図ろうとした事もありましたし、マレーシアで開かれたAPEC総会でクリントンの替わりに参加したゴア副大統領が冒頭のマレーシア批判演説を行った直後に席を立つという事件もありました。

太田さんも記述されている通りマハティールはソロスを始めとするヘッジファンドに関して強い不満を持っている事も事実です。
通貨危機自体が欧米資本による途上国の富を収奪する第二の植民地主義の展開という見方もありえます。

マハティールの永遠の目標は、マレーシアを、如何に、再度欧米に隷属しない国家とするかという点にあった事は疑いの余地のない事だと思います。その点で、マハティールには欧米に対する深い疑心が潜在している様に思います。日本で言えば明治の元勲達が抱いた危機感をマハティールは共有していると言えなくもありません。

太田さんは反ユダヤ主義を煽る事で、マハティールが最後に馬脚を現したと書かれましたが、欧米マスメディアや米国民主党政権、ヘッジファンドグループと言った欧米のエスタブリッシュメントの中核にユダヤ人がいる事もまた事実です。勿論、統一されたユダヤ人の陰謀というものがある訳ではないと思いますが、マハティールにとって欧米エスタブリッシュメントをダイレクトに批判するよりも、激を飛ばす意味で、イスラム諸国民が理解し易い「敵」であるユダヤ人を例示したのではないかというのが私の感想です。

マレーシアでの反ユダヤ主義ですが、マレーシアで反ユダヤ感情が一般的なイスラム諸国に比べ高いという事実を寡聞にして私は見聞きした事がありません。反ユダヤというより、余程、反華僑であると思います。

独立直後の共産ゲリラとの対決、シンガポールの独立、経済面での華僑優位等々、マレーシアには反華僑の土壌がありますし、マハティールのプミプトラ政策については良く知られている処です。また、アジア危機の際は、シンガポールとの緊張を高める事で国内の意識統一を図っていた様に思いましたが、それが有効に機能する程度に国民には反華僑意識がある事は間違いないと思われます。

なお、私は、最近の田中宇氏の論評、特に陰謀論について評価しておりませんが、以下のマハティールに関する論評には参考になる点が多かったと思っております。

マハティールとユダヤ人  2003年11月03日
http://tanakanews.com/d1103mahathir.htm

負けないアジア:マハティール首相 1999年7月21日
http://tanakanews.com/990721mahathir.htm

<太田>
読者βさん。今回も色々ご教示いただき、ありがとうございました。

読者αへの回答は、もともとのコラムの中で既に行っています。
どなたかが指摘されるだろうと見守っていたのですが、自分で引用させていただきます。

「米国の経済学者でコラムニストのポール・クルーグマンは、この演説は、練達の政治家であるマハティールが計算し尽くして行ったものであり、イラク戦争と無条件のイスラエル支持によって今やイスラム世界で米国が憎悪の対象となっていることを踏まえ、イスラム諸国を覚醒させ、その変革を促すためにはあえて「激しい」言葉を用いざるを得なかったのだろうと指摘しているが、マハティールの用いた言葉は「誤った」言葉であり、この指摘には同意しがたい。」

なお、一般論として、「国際情勢」愛好家に、日本を非難する外国要人に対しては強く反発し、日本を持ち上げる外国要人には無条件で相好を崩す、という傾向が見られます。
マハティールのマレーシア首相当時のルックイースト「政策」や李登輝台湾前総統の武士道礼賛等は大変結構なことですが、彼らはあくまでも外国の政治家であり、その裏にある冷徹な計算を忘れてはなりません。
私は李登輝前総統の米国における言説をちょっと調べてみたことがありますが、そこではもっぱら自分がクリスチャンであることをキャッチコピーにして話をされており、武士道の武の字も、(そして当然のことながら、日本の台湾統治の「すばらしさ」についても)一切言及がありませんでした。

<読者β>
マハティールの評価について、太田さんと議論するつもりはありません。

ただ、マハティールやシンガポールのリ・カンユー、インドネシアのスハルトなんかはかの国では、日本で言えば維新の元勲にあたる人達なんだろうなという気持で見ておりました。

また、李登輝なんかも、やはり凄い政治家ではないでしょうか?
台湾を国民党独裁国家から平和的な政権交代が可能な民主主義国家に変えた訳ですから。彼の最終的なゴールは名実共に台湾を自由民主主義に基く独立国家とする事ではないかと思います。その点で李登輝が米国で台湾へのシンパシーを得る為に、クリスチャンである事を利用し、日本向けには武士道や日本精神を使う事は矛盾ではないと思います。ある意味当然の事ではないでしょうか。

マハティールについても同様です。元々英領マレー植民地から独立した事で国民に旧宗主国指向が強かった訳で(シンガポールなんかは典型です。教育制度も英国に準じていますし、医者は英国の大学を卒業したのがプレステージになっています。)、ルックイースト政策も、そういう国民の英米指向を切り換えるのに利用しています。
国民の英米指向が実質的な再植民地化を招来する事を懸念したのかも知れません。

その一方、日本については、直接投資が期待出来る他、大東亜戦争時に日本軍がマレー人を優遇したので国民にシンガポールの様な反日意識もありませんでしたので、ルックイーストと言っても、抵抗感がないという点も指摘出来ると思います。
(なお、シンガポールは表だっては言いませんが、国造りに日本の経験をハード、ソフト両面で最大限に導入、活用しています。)

蛇足ですが、リ・カンユーと李登輝は客家という点では共通なので、元々親交があったそうですが、リ・カンユーが中国接近策を取った事で、李登輝との間がギクシャクしたという事です。

また、シンガポールは、富める資本主義国でありながら事実上の一党独裁国家(Peoples Action Party 人民行動党;党のシンボルマークは丸に電光)で、集会・出版の自由を国民に許しておりません。
江沢民は、シンガポールを中国の社会主義市場経済のモデルと考えている節があります。(事実関係は確認しておりませんが、中国共産党の幹部学校がシンガポールに設置されているとの話を聞いた事があります。)上記の体制面の類似性から見てあってもおかしくないと感じました。