太田述正コラム#0202(2003.12.6)
<イスラム社会は世俗化できるか(その1)>

 (コラム#200に加筆修正を加え、コラム#201の「てにをは」を直してあります。私のホームページ(http://www.ohtan.net)のコラム欄でお確かめ下さい。)

 前にも触れたことがあります(コラム#19、#24)が、イスラム社会が近代化に失敗して深刻な状況にあることは、以下の諸データが雄弁に物語っています。
 まず、マレーシアのある新聞に掲載された論考によれば、識字率はユダヤ教徒が97%、キリスト教徒が87%、仏教徒が85%、ヒンズー教徒が53%であるのにイスラム教徒は51%、そして一人当たり所得はユダヤ教徒が15,000米ドル(113カ国を調査)、キリスト教徒が7,500米ドル(218カ国を調査)、仏教徒が6,000米ドル(27カ国を調査)であるのにイスラム教徒は1,800米ドル(123カ国を調査)、に過ぎません。(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EL03Aa01.html(12月5日アクセス)から孫引き)
それもそのはずです。
2001年のイスラム諸国(総人口13億人近い約60カ国)への投資額は合計約136億ドル(約1兆6000億円)と、人口900万人のスウェーデン一国への投資額とほぼ等しいに過ぎないからです(日本経済新聞2003.4.5(朝刊)「中東民主化の急がば回れ」)。(注1)

(注1)アラブ諸国(22カ国)にしぼるとどうなるか。
その輸出合計の世界に占めるシェアは、1980年の13.3%から2001年には4.3%へ、と約三分の一に低下した一方で、中東の総人口は2000年には約3億人と20年前に比べて70%増と大幅に伸びている(上記日経記事)。
また、過去20年間の一人当たり所得の伸びは、サハラ以南のアフリカ諸国の次に低く、年率0.5%にとどまる。自由度に至っては、世界最低の地域だ。更に、アラブ諸国合わせて年間300冊しか翻訳書が出ておらず、これはギリシャ一カ国の五分の一より少ない。そもそも、7世紀以降で10万冊しか翻訳書が出ておらず、これはスペイン一カ国の年間翻訳書数に等しい。(http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/DG27Ak01.html。2002年7月29日アクセス)

 このような状況を打開して近代化を図るためには、イスラム社会が世俗化される必要があることも、このコラムで既に指摘した(上記コラム#19、#24)ところです。
 米国には「イスラム社会世俗化研究所」(The Institute for the Secularisation of Islamic Society =ISIS)という研究所まであります(http://www.secularislam.org/Default.htm。12月6日アクセス)。
 しかし、本当にイスラム社会は世俗化できるのでしょうか。
 トルコという、完全に世俗化した憲法を持つイスラム社会が世界でただ一つだけあることはあるのですが、トルコはケマリズムという国家イデオロギーを国民に強制することによって、かろうじて世俗化社会の外観を維持しているだけであり、だからこそ近代化にも成功しているとは言いがたい(コラム#163??165及び167)ということを考えると、イスラム社会の世俗化の困難さが推し量れます。
 ここでご参考までに、イスラム社会の世俗化はイスラム教そのものの根底的な批判なくして不可能である、と主張する人々の説をご紹介することにしましょう。(なお、私自身のイスラム批判は上記コラム#19、#24参照。)

 オスマントルコ帝国が崩壊した1920年に「来るべきミレニウムは、・・西洋と東洋、キリスト教とイスラム教、ゲルマン系の人々とアラブ人との間の争い、となるだろう」と予言(注2)した(高名な神学者にして哲学者の)ドイツのユダヤ人フランツ・ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig。1886??1929年)は、ユダヤ教は民族(people)が、会衆(congregation)となり、最後にそれが宗教になり、キリスト教は会衆から始まり、それが民族(新ユダヤ人)を形成し、最後に宗教となったのに対し、イスラム教はムハンマドという一個人の手によって、最初から、ユダヤ教とキリスト教のパロディーたる新宗教として作り出された、と指摘しました。

 (注2)この予言は、2001年10月7日に放映されたビデオの中で、オサマ・ビンラディンが語っ
   た「80年以上(つまり、1920年から(太田))にわたってイスラムが蒙ってきた蔑みと屈辱(debasement and disgrace)」と気味悪いほど符合している。

そして彼は、イスラム教の神は、東洋の専制君主のイメージを借りたものであり、ユダヤ=キリスト教の愛の神とは似ても似つかないものであり、必然性(necessity)や規範性を無視してきまぐれかつ暴力的にふるまい、人間を翻弄する存在であるとも指摘しました。
ローゼンツヴァイクによれば、このようなイスラム教は不毛の宗教であって、そのためイスラム社会はおよそ新しい文化を生み出すことができず(注3)、またこのようなイスラム教は一神教を標榜しつつも実は多神教に等しく、そのためイスラム社会においては政治権力は異なった神をかついで細分化され互いに争いあい、その一つ一つの政治権力の下で、被治者たる個々人もまた、ばらばらの状態でそれぞれの神をかついであい争うことになるというのです。(以上、アジアタイムス掲載の仮名論説http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EL02Aa01.html(12月2日アクセス)による。私のイスラム社会論はコラム#87参照。)

(注3)ノーベル文学賞を受賞したV.S.ナイポールが、同様の批判を行っていることを前に紹介した。(コラム#24参照)

 現在、ローゼンツヴァイクの衣鉢を継いで根底的なイスラム批判(クリティーク)を展開しているのが、評論家のイブン・ワラック(Ibn Warraq(仮名)。インド亜大陸出身でイスラム教棄教者。米国居住か)と学者のクリストフ・ルクセンベルグ(Christoph Luxenberg(仮名)。近東出身のキリスト教徒。ドイツ居住か)です。
 この二人がいずれも仮名でしかイスラム教批判を展開できないところに、彼らの艱難辛苦がしのばれます。
(私はあくまでも、彼らやローゼンツヴァイク、アジアタイムスの仮名論者達の説を紹介しているだけです。イスラム教徒の読者の皆さん。間違っても私に危害を加えないでください!)

(続く)