太田述正コラム#6200(2013.5.11)
<中共の資本主義化の軌跡(その5)>(2013.8.26公開)
 中国ではスミスは『国富論』<(コラム#1220、3756、4174、4176)>と『道徳感情論』<(コラム#2562、3756、4174)>がともに読まれ、重視されている。
 2009年2月2日、『フィナンシャル・タイムズ』紙・・・のインタビューで、中国の温家宝首相はこう述べた。「私たちが望むのは平等で公平な社会、国民が自由で平等な環境で多方面の発展をなしとげられる社会です。これは私がアダム・スミスの『道徳感情論』を愛読している理由でもあります」。中国の政治・経済改革の将来について問われると、温は以下のように答えた。
 「アダム・スミスは1776年に『国富論』を書き、同時期に『道徳感情論』も書いた。アダム・スミスの『道徳感情論』での主張は素晴らしい。社会の経済発展の成果をみなで分かち合えなければ、道徳的に不健全で危うく、社会の安定を脅かすに違いない、という主旨のことを述べている。社会の富が少数の人々の手に集中しているなら、それは人民の意志に反しており、社会は必ずや不安定になる。」
 これより前の2008年9月23日に行われた『ニューズウィーク』誌の・・・インタビューで、温家宝は同様のコメントを残していた。「私は道徳性をきわめて重視する。企業家も経済学者も政治家も一様に、もっと道徳性と倫理性に気を配るべきだと強く思っている。私の考えでは、倫理、道徳の最高の規範は正義だ」。
 2009年2月28日、温家宝はインターネット経由で自分のアダム・スミスについての理解を中国読者に伝えた際、スミスは実のところ商業社会を機能させる二つの「見えざる手」の存在を、一つは市場、もう一つは道徳性に働く要因を主張していたと力説した。 ・・・
→私が(人間主義の書として)『道徳感情論』に注目している旨記したのは2008年5月22日付のコラムにおいてであり、奇しくも、温家宝による同書への初言及より4か月前です。
 もとより、そこに直接的因果関係などあるわけがないのですが、一つ言えることは、仮に私の推測通り、中共当局、より端的にはトウ小平が、中共の日本型経済体制化なる革命を推進してきたのだとすれば、その担い手たる中国共産党員達、そしてできうれば広汎な中共人民の阿Q的精神を根絶するとともに、日本人の人間主義・・彼らがいかなる言葉を用いているのかは分かりませんが・・を注入しなければならない、と考えたとしても不思議ではない、ということです。
 しかし、トウは、存命中にそこまで手を広げることができなかったところ、1997年の彼の死後、まず、江沢民政権が、当面の弥縫策としてアナクロにも孔子の復権(コラム#5654)を試みた後、胡錦濤政権の下で、2009年から、人間主義の注入に本格的に着手した、と見ることもできるのではないでしょうか。
それにしても、江沢民の、(中国共産党独裁を維持するためのナショナリズムの喚起の一環としての)反日政策(注10)をも継承した胡錦濤政権が、このような親日政策を同時に推進したこと・・人民網を通じて窺える、執拗なまでの日本ヨイショ記事・・日本人の人間主義礼賛記事・・の人民日報への掲載は、この文脈の中に置くことで初めてその意味を理解できるように思います・・は、統合失調症という誹りを受けても仕方ないでしょうね。
 (注10)反日政策を開始したのはトウ小平であった、とする見解もある。
http://online.wsj.com/article/SB10001424127887324326504578465032155562000.html?mod=WSJASIA_hpp_MIDDLETopNews
(5月11日アクセス)
 私の見解は留保しておきたい。下掲を参照のこと。
 「日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、<南京事件記念>館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。1982年、田辺の再三の建設要求と破格の資金提供に対し、・・・<トウ>小平・・・が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。この支持を受けて、・・・南京大虐殺紀念館<が>・・・1985年・・・8月15日にオープンした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E7%B4%80%E5%BF%B5%E9%A4%A8
 (人民網の日本語版を読み続けている私は、連日のようにこの中共当局の統合失調症性を体感させられています。
 このことから、どうして推奨されたのが日本人たる和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』等ではなく、『道徳感情論』でなければならなかったのか、が説明できるのではないでしょうか。
では、どうして日本人の人間主義礼賛記事ばかり・・人民網/人民日報の英語版にあたったてみたことがないので、恐らく、としか言えませんが・・であって、拡大イギリス人(=英国人、カナダ人、豪州人、ニュージーランド人等)の人間主義礼賛記事はないのか、については、『道徳感情論』は理想化されたイギリス人像を描いており、現実の、そして現在の拡大英国人の言動から人間主義的なものを見出すのが必ずしも容易ではない、という事情があるのではないでしょうか。)
 このような背景の下、人間主義の注入努力だけでは心許ない限りだ、ということなのでしょうか、胡錦濤政権は・・当時既に次期主席に内定していた習近平がイニシアティヴをとったのかもしれませんが・・、その末期の2012年頃から、「貯金や給料を災害救助に寄付したり、配給された食糧を困っている人々に分け与えたり、自己犠牲的な精神で個人レベルでできる最大限の支援をした篤志家」、すなわち利他主義者たる雷峰(コラム#5341)
http://byeryoza.com/china/topic/yomoyama/history/raihou.htm
の精神の昔の名前で出ています的再称揚まで始めています。
 そして、これら全てを受け継いだ習近平政権が成立して現在に至っているわけです。(太田)
 ある意味では、道徳哲学者で現代経済学の祖でもあるアダム・スミスが中国で称賛されるのは驚くべきことではない。儒教では、社会の調和の基礎として個人の倫理の重要性を強調している。法が社会秩序の唯一の、または第一の源泉とはなりえないと孔子は力説した。代わりに仁を最高の徳とし、社会の調和の基礎とした。 ・・・
→「実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった<春秋戦国時代に、>・・・周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げ<たところの、>・・・家父長制的な宗法制度や男尊女卑<を旨とする>」儒教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
と、実力主義が貫徹される市場とその弊害を予防し是正する道徳感情とを社会の車の両輪として掲げたアダム・スミス(コラム#2562)とは、全く相容れないのであり、王寧の主張には首肯できません。(太田)
 <現在の中国の企業>の状況は、せいぜい良い言い方をしても「製品なき製造」であるが、世界の頂点をねらう経済にとって良い兆候ではない。・・・
 ほとんどの中国企業を自由にし、市場競争に直面させた経済改革だが、中国の大学には同じ開放的効果をもたらしはしなかった。中国の大学の大多数と教育制度全般はいまだに国の統制下にある。中国の市場改革の最も深刻な欠陥がここに露呈している。・・・
 中国の大学の重大な制度的欠陥は自主権がないことだ。多くの大学はいまだに国が主な財源であり、教育部の厳しい統制を受けている。主要な大学の党書記と学長は教育部が任命する。学内では党書記のほうが学長より地位が高く、運営についての決定権も強い。大学のすべての学位取得課程はまず教育部の承認を得なければならない。・・・
 中国の高等教育は商業化され拡大はしたかもしれないが、この教育改革はアイデア自由市場をもたらしはしなかった。・・・
 中国の大学に関しては、基本的に政府が投入(財政と人事)も産出(学位取得課程)も掌握しており、大学にほとんど自主権が与えられていない。・・・
→戦後日本は(平和賞・文学賞を除く)ノーベル賞受賞者を輩出している・・中共からはゼロ・・ところ、その全員が、国立大学法人になる前の(ほとんど自主権が与えられていなかった)旧帝大たる国立大学の卒業生である、という事実に照らすと、ここで著者達が言っていることはナンセンスに近いことが分かろうというものです。(太田)
 教育だけでなく中国の法律と政治もまた、活発なアイデア市場がないことで著しく損なわれている。・・・
 おそらくは日本語からの翻訳の影響だろう、国民党も中国共産党も、中国語の「党」を自称した。中国の政治思想ではこの言葉にはきわめて否定的な意味合いがある。党利党略の政治は一貫して優れた統治と公益を害し、限られた集団の利益を推し進める、秘密主義の狡猾な勢力と見なされてきた。これは中国語の格言「結党営私」、文字どおりの意味は「私利を求めて結党すること」に示されている。伝統的な中国政治思想の「天下為公」(天下もって公と為す)つまり「天下は公民のものである」<(注11)>とは正反対だ。20世紀中国の政党政治の経験はこの政治原理の価値を否定はしなかったが、こうした政治的遺産は中国にアイデア自由市場をもたらす方法としての多政党間競争の良き前触れとはなっていない。・・・
 (注11)「中国の古典「礼記」の一節・・・。「天下は権力者の私物ではなく、公(そこに暮らす全ての人々)の為のものである」という意味・・・。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1230513607
→ここは、面白い指摘ですね。現代支那の政治経済社会用語の大部分は日本語からの翻訳・・漢字表記は同じなので、厳密には翻訳とは言えないが・・であることからすれば、同様の「誤解」、「曲解」は他にもいくらでもありそうです。(太田)
 秦の始皇帝は、自らの統治の脅威と考えた思想を弾圧するため、書物を焼き捨て(焚書)、何百人もの儒学者を生き埋めにした(坑儒)。・・・
 トップの意志決定者は、大幅な自由裁量権を有しながらも、限定的でしばしば偏向した情報しか与えられない。権力構造の下位にいる情報管理者は多くの情報に接してはいるが、行動の権限には乏しい。政治権力から独立した活発なアイデア市場は、意志決定者にしかるべき情報が与えられることを保証して、制度を守るために不可欠の装置となる。 ・・・
 アダム・スミスには、今日ではどんな民主国家でも当然の政治的権利である投票権がなかった。だがスミスは言論と表現の自由をもち、その業績でアイデア市場を永遠に富ますことができた。アイデア市場と民主主義の相性のよさは否定しがたいものの、複数政党民主制で選ばれた政府がなくてもアイデア市場が栄えることは可能だ。 ・・・
→もともと大陸法とイギリス法(コモンロー)が混淆した法を持っていたスコットランド
http://en.wikipedia.org/wiki/Common_law
は、イギリスの度重なる侵略によってその法的インフラを破壊されたたため、14世紀初頭以降、イギリス人のグランヴィル(Ranulf de Glanvill)が1188年に書いたイギリス法の本に拠りつつ、コモンローを積極的に取り入れ、
http://en.wikipedia.org/wiki/Regiam_Majestatem
爾来、スコットランドでは、(イギリスにおけると同様、)自由主義/法の支配(法治主義+手続き的正義)が確立して18世紀を迎えており、また、スコットランドは、昔から教育熱心な地であり、既に17世紀までに、(イギリスには大学は2つしかなかったのに、)大学を5つも擁し、アダム・スミスが生きた18世紀中頃には地理的意味での欧州中、最も高い部類に属する75%の識字率を誇り、更にまた、1707年のイギリスとの合邦以来、同一国内となったイギリスや英領北米植民地との交易等がもたらした経済高度成長下にあり、いわゆるスコットランド啓蒙主義 (Scottish Enlightenmen)の時代を謳歌していました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Enlightenment
 普通選挙が行われる現在のような民主主義が実現していなくてもアイデア市場が栄えることは可能ですが、そのために必要不可欠なのは自由主義が確立していることであり、18世紀のスコットランドとは違って、法の支配どころか法治主義すら確立していない中共において、アイデア市場が栄えることなどありえないのであり、著者達の主張は到底成り立ちえません。
 念のため付記しますが、どんな悪法でも法治主義が確立しておれば、その法の枠内でそれなりのアイデア市場が成立する余地があるけれど、法治主義が確立していなければ、どんな言論が罰せられるのか全く分からないので、あらゆる批判的言論が抑制されてしまう、ということです。(太田)
 アイデア自由市場の大きな利点は、多様な文化や政治制度と共存できることだ。アイデア市場は明らかに中国の<春秋>戦国時代に、儒家、道家、法家などの諸子百家が出現した時期に栄えた。唐の時代、都の長安に朝鮮、日本、安南(ベトナム)、インド、ペルシャの学者たちが集まっていたころにも栄えた。アイデア市場は古代ギリシャの都市国家で繁栄した。9世紀から13世紀に『千夜一夜物語』の多くの説話の舞台となったアッバース朝の学問の中心、バグダッドでも隆盛だった。単一の政治体制を課されずとも、アイデア市場はむしろ寛容さを育み、多様性を培い、実験と革新を促進し、社会の回復力を高めていく。アイデア市場は必ずしも民主主義と同義ではない。 ・・・
→春秋戦国時代は、支那が多数の国に分裂していて、それぞれの国が比較的長期間存続し、かつこのような春秋戦国時代が500年以上続いた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
ために、権力分散に由来する疑似自由主義的状況が出来し、(基本的に帝王学たる諸派が競い合うところの、)疑似アイデア自由市場が栄えたけれど、秦による支那の再統一の後は、支那においては、かかる状況が再現されることがなかったために、春秋戦国時代のそれに匹敵する疑似アイデア自由市場すら復活することが一度もないまま現在に至っているわけです。
 また、古典ギリシャのアテネにおいては、その人口の一部であったとはいえ、全男子成人市民による直接民主主義に基づく法治主義が確立し、そのおかげでアイデア自由市場が栄えたわけです。
 アッバース朝におけるアイデア自由市場もどきは、学問好きの酔狂なカリフが出現した時においてのみ、その庇護の下で咲いたところの、砂漠の中のオアシスにおけるあだ花以上でも以下でもなかった、と言うべきでしょう。(太田)
 この驚異の<改革開放「革命」という>物語の攪乱要因<(「指導方針」のミスプリか?(太田))>は、中国の「実事求是」<(注12)>の教え<であったが、これは、トウ>小平が誤って「マルクス主義の真髄」と呼んだものである。」
 (注12)「中国,清代の考証学派の学問精神を示すことば。もと《漢書》河間献王劉徳伝に,彼の好学を評して,〈実事に是(ぜ)を求めた〉とあるのにもとづく。個別的事例について真実を追求するの意味。考証学は,明末・清初の顧炎武に始まるとされるが,いわゆる実事求是の学風が確立されるのは,四庫全書編纂が開始されてより後の,乾隆・嘉慶時代(1736~1820)であり,浙東学派に章学誠,呉派に恵棟,王鳴盛,銭大昕ら,皖派に戴震,段玉裁,王念孫,王引之らを輩出した。」
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E4%BA%8B%E6%B1%82%E6%98%AF
 「毛沢東の思想・・・の大綱として<、>大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是(現実から学んで理論を立てる)などがある。・・・毛沢東の死後、その後継者を自称した華国鋒の唱えた「二つのすべて・・・」<は、>[「毛主席の決定した事はすべて支持し、毛主席の指示はすべて変えない」という主旨・・]<だったが>、[<トウ>小平・・・が、第10期三中全会で復活を果たすと、1978年5月に論文『実践は真理を検証する唯一の基準である』(「実事求是」)を光明日報、ついで人民日報、解放軍報に掲載し、「二つのすべて」批判を開始した。その後、各界で「毛沢東の一語一句が真理というわけではない」とする主旨の論文、文章が発表された。華国鋒は、・・・有効な反撃ができないまま、第11期三中全会で「二つのすべて」は批判され、「実事求是」が全党の指導方針となった。]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6 ([]内)
→トウ小平が言うところの「実事求是」は余りにも当たり前過ぎて、華国鋒を失脚させる際の小道具にこそなったけれど、改革開放「革命」の指導方針と形容するに値する代物ではありません。(太田)
(続く)