太田述正コラム#6278(2013.6.19)
<パナイ号事件(その13)>(2013.10.4公開)
 「海軍航空隊の南京空襲部隊による南京爆撃は第一次(9月19日)から第11次(9月25日)まで続けて行われ、延べ291機が参加、撃墜した中国戦闘機は48(うち確実42)機、投下した爆弾数は計355発、重量にして32.3トンに達した。日本側の被害は、戦死(行方不明を含む)18名、失った機数10機であった。
 19日の第一、二次の空襲によって基本的に南京の制空権を制覇して以後、散発的な交戦はあったが、第7次以降は南京上空にまったく中国機影が認められない状況になり、南京の制空権は完全に日本軍が確保した。・・・
 南京陥落直後の話になるが、当時第13航空隊の艦上爆撃隊の指揮官であった奥宮正武大尉は、南京攻撃時に戦死した飛行搭乗員たちの消息を調べて約一週間南京市の内外を広範に駆けめぐり、陸軍部隊が捕虜・市民を大量に虐殺している光景を何度か目撃しているが、そのときのことをこう記している。
 この一連の調査中、私は、市の内外を合わせて、20数柱の<飛行搭乗員>の遺体を発見することが出来た。そのさい私の胸を打ったのは、中華門の南方にある農村の墓地で立派な木製の棺に収められた9柱の遺体であった。・・・首都の被爆で混乱を極めていたであろう時に、人道的な見地から、敵兵を丁重に葬ってくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。その頃城外で行き合った多くの農民からは、敵意をまったく感じなかった。また、城内の中心に近いところでは、墜落した日本機が民家とその住民を道連れにしたという悲劇も聞いた。繁華街の人々も、親切に私の調査に協力してくれた。」(129~130)
→「捕虜・市民を大量に虐殺」は「捕虜・便衣兵を大量に殺害」でしょうが、奥宮の手記からは、日本の海軍による爆撃のコラテラルダメージ、及び、日本の陸軍兵士による一般住民の若干の虐殺や相当多数の強姦にもかかわらず、住民が日本軍に協力的だったというのですから、民心がいかに蒋介石政権から離れていたかが窺えます。
 そもそも、南京からの撤退にあたっても、蒋介石軍は、外国人在住者達の目が光っていた城内ではともかく、城外では掠奪や破壊をやって立つ鳥跡を濁していったに違いありませんしね。(太田)
 「南京空襲部隊は9月25日の第11次空襲をもって南京攻撃を終了し、同部隊の編制を解いた。元編成に戻った第二連合航空隊・・・は、それまで上海戦において陸軍の先頭に「南京方面作戦のため十分なる兵力をもって組織的に協力を実施し得ざりしところ…10月1日を期し、当隊兵力の大部分をもって積極的に陸軍作戦に対する協力を開始せり」として、上海区域の陸軍作戦に全面協力を開始する。・・・
 日本<陸>軍が上海戦で・・・けっきょくは19万人という大兵力をつぎこむことになり、最後には4万3672人にも達する死傷者(戦死者9115人)を出すという苦戦を強いられることになったにもかかわらず、海軍航空隊は、陸軍の窮状をよそに、(まだ南京攻略戦が発動されていない段階で)南京空襲作戦を優先したのだった。海軍にとっては、・・・将来の対米航空決戦の準備をすることが、陸軍作戦強力よりも海軍の組織的利益にかなっていたのである。」(135~136)
→笠原は、前出のドゥーエについての記述にも表れているように、少しは軍事についての勉強もしたのでしょうが、その勉強が全く身に付いていないのか、それとも、勉強したことを無視してプロパガンダ的な自説を一方的に述べ続けているのか、そのどちらかでしょうね。
 海軍としては、戦闘機の掩護がなければ、(地上戦闘が主として行われるところの)白昼に攻撃機(爆撃機)を飛ばすわけにはいかず、また近接航空支援は戦闘機をもってするところ、攻撃機や戦闘機が敵航空機の妨害なしに行動できる状態を確保するため、すなわち制空権を確保するため、かつまた、海軍の戦闘機は上海公大飛行場を唯一の基地としていたところ、この飛行場を敵航空機によって破壊されないためにも、南京等、上海周辺の敵航空機や航空基地を破壊する必要があり、それに加えて、南京における敵の(航空作戦・兵站中枢を含む)作戦・兵站中枢を無力化する必要もあったことから、これらの目標に対する戦略爆撃ないし航空阻止
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E7%A9%BA%E9%98%BB%E6%AD%A2
を優先的に行わざるをえなかった、ということに尽きます。
 そして、以上を達成した上で、海軍は、ようやく戦術爆撃(近接航空支援と戦場航空阻止)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%A1%93%E7%88%86%E6%92%83
に切り替えることができた、ということなのです。
 当然のことながら、以上については、海軍は、陸軍と事前に調整し理解を得ていたものと考えられます。(そうでなかったとすれば、陸軍からクレームが付いていたはずですが、そのような形跡は皆無です。)(太田)
 
 「南京空襲作戦の最中、長谷川清第三艦隊司令長官は、南京駐在の列国外交機関・各国居留民と南京市民に対して南京空爆宣言をおこなった。
  通告文(9月19日付)
 我が海軍航空隊は9月21日正午以後、南京市および付近における支那軍ならびに作戦および軍事行動に関係あるいっさいの施設に対し、爆弾その他の加害手段を加えることあるべし。(中略)
 第三艦隊長官においては南京市および付近に在住する友好国官憲および国民に対し、自発的に適時安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるをえず。なお、揚子江上に避難せらるるむき、および警備艦船は下三山上流に避泊せられんことを希望す。
  警告文(9月20<日>付)
 帝国海軍航空隊は、爾今南京市およびその付近における支那軍隊その他作戦および軍事行動に関係ある一切の施設に対し、必要と認むる行動をとることあるべく、(中略)非戦闘員は該軍事目標に接近せざるを可とすべく、これを敢えてなすものは、当該各人自身の危険においても、その起こるべき危害にともなう責任は、我が軍においてはこれを負わざるべし。」(136~137)
→笠原は、「南京空襲作戦の最中」と書いていますが、9月19日に実施された第一次攻撃は、「飛行場にある中国機の爆破ならびに誘出を」目的としたものであり、誘出機の撃破の後に爆撃したのは(当然のことながら南京城外の)「板橋鎮新飛行場」と、(恐らくは同じく南京城外の)「兵工廠」・・これは敵航空機の整備や修理、或いは飛行場の修復をさせないために攻撃しなければならない・・であり(126)、同日中に引き続き実施された第二次攻撃では、残余誘出機の撃破の後に爆撃したのは(恐らく爆弾が余ったことに伴い、勇み足的にやった可能性が高い(?))「南京の中心にある憲兵司令部と警備司令部」であり(128)、また、第三次攻撃については記述がありませんが、20日の第四次攻撃については「空戦のため照準を失し、爆弾は市中に落下」してしまった(131)という誤爆であって、しかも、21日には攻撃が行われなかった(131)というのですから、長谷川長官の通告は、南京本格爆撃の3日前に行われたものであって、南京在住の外国人や支那人達に避難のための時間的余裕を十分与えていた、従って、厳しい言い方をすれば、一般住民で被爆した者は、自業自得であった、ということです。(太田)
(続く)