太田述正コラム#6365(2013.8.2)
<日支戦争をどう見るか(その12)>(2013.11.17公開)
 キリスト教は男性原理(女性差別)の宗教である(コラム#6360)のに対し、日本は女性原理(男女平等)の世界である・・ちなみに、仏教は後者に属する・・。
 そんなことが、日支戦争と何の関係があるのか、と思われることでしょう。
 順次説明して行きますので、先を急がずに、ご辛抱を願います。
 まず、キリスト教が、男性原理の宗教であることを推認させるところの、女性差別の宗教であること、を確認しておきましょう。
 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ人への手紙 3:26-3:29)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1473314149
 なんだ、パウロは「男も女もありません」、すなわち、(キリスト(ユダヤ教キリスト派)教徒同士という限定は付いているものの、)人間は全て平等であり、男女もまた平等である、と言っているではないか、と思われたことでしょう。
 しかし、下掲を読んでいただきたい。
 「創世<紀>からみる限り、聖書は女性が劣った位置を占め、男に従属する役割を引き受ける性差別を描き、支持している。女は、誘惑されるという弱さだけではなく、男にも誘惑をもたらすと・・・非難されてい<る>。・・・
 <次に、イエスの事跡を見てみよう。>
 イエスが神の国と救いの教えを伝えるために、弟子の中から特に選んだ12・・・使徒らは全員、男である。・・・
 <また、>「マルコ福音書」16・・・では、十字架にかけられたイエスの最後を見守った人、そして復活のイエスの最初の目撃者は、マグダラのマリアをはじめとする女性弟子であったことを伝えている。・・・<ところが、>イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。・・・マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし、彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。・・・
 イエスの死は、キリスト教の教えの基本では、人間の罪を背負った死だと教えられている。この人間の罪とは、創世記でのアダムとエバが神にそむき、犯した罪の事をさしている。・・・
 <更に、(先ほど登場した)パウロは、次のように言っている。>
 「男は神の姿と栄光を映す者です<が>・・・、女は男の栄光を映す者です。というのは男が女からでてきたのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」(『コリント人への手紙1』11章4~8節)・・・
 「婦人はまったく従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかもアダムはだまされませんでしたが、女はだまされて罪を犯してしまいました。しかし、婦人は信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子供を産むことによって救われます。」(『テモテ人への手紙1』2章11~15節)・・・
 「婦人たちは教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。…何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会で発言するのは恥ずべきことです。」・・・<(>『コリント人への手紙1』14章35節<)>」
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/watanabe(06-1-27)
 上記のような聖書の要訳や記述の紹介を行った上で、渡邉祥子は、「創世記での神の女性差別、イエスの女性に関すること、パウロの女性についての教えだけが、<欧米における>今日までの女性排除、差別を生んだのではない。ただ、原因、根源としてそれらがあげられるのだ。」という結論を下しています。(上記京都産業大学サイト)
 私も全く同感です。
 ここで私が言いたいのは、キリスト教の女性差別性・・より一般的には男性原理性・・は、実は、キリスト教の根源的教義に由来している、ということです。
 
 キリスト教の根源的教義が利他主義(愛)であることに首肯される方は多いでしょう。
 というのも、キリスト教は、以下のように、利他主義(愛)を強く説く宗教であるからです。
 「良い牧者は羊のために命を捨てます」(ヨハネ福音書10:11)
http://blog.goo.ne.jp/smf405/e/70868c2f340124786c539539995cb227
 「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ福音書10:25-37)
http://www.kohara.ac/research/2011/03/06.html
 「全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(Ⅰコリント13:3)(=利他主義の意思に基づき他者のために命をかけて尽くしなさい(太田))
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28541/3/Honbun-4369.pdf
 これは、農業/遊牧社会の到来とともに人間主義的本能を抑圧されてしまったところの、利己主義的な人間を、かつての人間主義的な人間に戻すためにイエスによって提示された、過激な方法論であった、というのが私の解釈です。
 しかし、このような過激な方法論を実践するとなると、それに抵抗する勢力を排除する必要が出てきます。
 だからこそ、イエスは、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ福音書10:34)
http://www.kohara.ac/research/2011/03/06.html 前掲
と、利他主義の前に立ちはだかるものは粉砕する、と自ら宣言したわけです。
 そして、この言に忠実に、イエスが、自ら「剣」をふるい、その結果刑死させられたことも我々は承知しています。
 「イエスの短い聖職者としての任期(ministry)の最も決定的な(pivotal)瞬間は、<利己主義の象徴に堕してしまったところの、>いわゆるエルサレム神殿の浄化だった。
 それは、彼の逮捕と処刑をもたらした。
 イエスと彼に付き従う多数の人々は、勝ち誇ってエルサレムに入り、神殿市場に入った…そして暴力的にそこに攻撃をかけた。
 この一連の出来事について、聖書にはそう書かれている。
 彼と彼に付き従う人々は、動物を入れてあった籠をこわして開け、金貸しや両替屋の机を蹴り倒した。
 聖書は、イエスが綱で鞭をつくって人々を打ち始めた、と記している。」
http://www.latimes.com/features/books/jacketcopy/la-et-jc-reza-aslan-talks-zealot-the-book-behind-viral-fox-news-video-20130730,0,3183459.story
(7月31日アクセス)
 イスラム教の「創始者」のムハンマドは、自ら軍勢を引き連れて戦った(典拠省略)けれど、ユダヤ教の刷新のために戦い、結果的にキリスト教の「創始者」となったイエスの戦闘性も、(流れた血の量こそ異なるとはいえ、)それに勝るとも劣らなかった、と言うべきでしょう。
 ここで、誰でも想像するであろうことは、イエスは差別を当然視していたのではないか、ということです。
 つまり、イエスは、ユダヤ教を刷新しようとしている自分達、それ以外のユダヤ教徒、更には異教徒、の3者を区別しており、異教徒はもとより、自分達以外のユダヤ教徒に対しても、差別意識を抱いていたのではないか、と。
 実際、下掲からもうかがわれるように、イエス自身が差別を認めていた、と推察できるのです。
 
 「新約聖書ではマルコ伝7章に自分の娘を救ってもらおうとしたギリシャ人の女に対してイエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答えています。
 子供たちとはユダヤ民族のことで、子犬とはそれ以外の民族です。」(注30)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1473314149
 (注30)マタイ福音書の「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(5:43~45)等から、イエスは差別を超越していた、とする主張もある。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/55.ai.html
 しかし、私は、このような見解には、上記イエス自身の処刑に至った原因たる事跡に照らし、与しない。
 以上から、キリスト教には、選民/差別思想と暴力性が内在している、と言えるでしょう。
 ただし、それらは、いかなる一神教にも内在しています。
 (このほか、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同根のアブラハム系宗教として、終末論思想も共有しているところです。)
 私見では、キリスト教の最大の特徴は、同教が、あらゆる宗教、就中一神教の中で、最も利他主義を強く説いていることに伴い、最も男性原理性・・女性差別性はその系・・の強い宗教である点に存するのです。
 どうして、利他主義と男性原理性とは切っても切り離せない関係にある、と私は考えるに至ったのでしょうか。
(続く)