太田述正コラム#6505(2013.10.11)
<バングラデシュ虐殺事件と米国(その2)>(2014.1.26公開)
 (2)資料源
 「最近秘密解除され、これまで聴かれたことのなかったところの、<ニクソン政権時の>ホワイトハウス<で録音された>テープ、そして、<当時の>ホワイトハウスの職員達やインドの軍事指導者達への広範なインタビューに基づいて<、この本は書かれた。>」(C)
 「もっとも、銘記すべきは、このインタビューの中にキッシンジャーが含まれていないことだ。
 彼は明らかに<本件で>インタビューされることを拒否したのだ。」(E)
 (3)事件の背景
 –歴史–
 「現代世界における極めて多くの物語がそうであるように、物語は、大英帝国の終焉から始まる。
 インドから去った1947年に、英国は、東と西のイスラム教徒が多数を占める両脇腹を切り落とした。
 当時、この分割は、殺人と追放の狂乱をもたらし、百万人の人々の死が生じた。
 パキスタンは、世界の最大の諸国の一つとして出現したが、同国は、1,000マイルのインド領域によって、二つの部分へと信じ難く分かたれていた。」(B)
 「西の方が支配的だった。
 そこに首都イスラマバードがあり、東の方よりも大きな政治的、経済的、軍事的影響力が存した。
 何よりも、より好戦的なパシュトン人とより金持ちの(prosperous)パンジャブ人を始めとする<西の>人々は、ベンガル人の東の人々を受動的で遅れている、と見下していた。」(F)
 「(今日のパキスタンである)西パキスタンは、その大部分が乾燥していて、貧しく、ウルドゥー語をしゃべった。
 (今日のバングラデシュである)東パキスタンは、沼地が多く、更に貧しく、そしてベンガル語をしゃべった。
 インドとパキスタンは何回も戦争をしたが、直近のものは1965年にあった。」(D)
 「深刻な問題が始まったのは、1970年にパキスタンの大統領であるアガ・ムハマド・ヤヒア・カーン(Agha Muhammad Yahya Khan)<(注3)(コラム#682、1843)>大将が総選挙の実施を認めた時だ。
 (注3)1917~80年。パキスタン大統領(途中から外相・国防相を兼務):1969年3月~1971年12月。軍入隊まで学歴らしい学歴なし。後に米陸軍指揮幕僚大学卒。第二次世界大戦中、英印軍の一員として、イラク、イタリア、北アフリカで活躍。陸軍参謀総長(1966~71年)。大統領就任は、前任のアユブ・カーン(アイユーブ・ハーン)からの禅譲。そして、大統領辞任時にはズルフィカール・アリー・ブットーに大統領職を禅譲した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yahya_Khan
勝利を収めたのはシェイク・ムジブル・ラーマン(ラフマン)(Sheikh Mujib-ur-Rahman)<(注4)>という名前のカリスマ的なベンガル人指導者だった。
 (注4)1920~75年。[カルカッタ大学系列の単科大学を経てダッカ大学で学ぶ。]「東パキスタンムスリム学生連盟のちにアワミ連盟を1950年代に結成した・・・。両団体はともに東パキスタンにより大きな自治を獲得するために活動した。・・・1970年パキスタン国会総選挙で、アワミ連盟は東パキスタンに割り当てられた162議席中、160を獲得した。この高い支持率を背景として、・・・ラフマンは東パキスタンがより大きな自治権をもつことを要求した。・・・パキスタン政府は戒厳令を敷き、インドからの協力を得た東パキスタンは内戦状態に突入し<、>ラフマンは逮捕され<た。>・・・。1972年1月12日、・・・ラフマンは独立したバングラデシュの首相となった。・・・<当>時のバングラデシュは、9ヶ月におよぶ内戦のために混乱していた。・・・ラフマンは戒厳令を宣言し、自ら大統領就任を宣言し、新たに組織されたばかりの・・・アワミ連盟を除くすべての政党の解党を命令した。しかし国政は改善せず、飢餓と疾病が広がっていった。1975年8月15日、・・・ラフマンは家族とともに陸軍部隊によりダッカで殺害された。後任として、前商業・土地収益大臣であったカンデカル・モシュタク・アーメッドが就任した。アーメッドはラフマンの暗殺を計画したひとりであった。1996年~2001年と2009年1月6日~、ラフマンの娘にあたるシェイク・ハシナが、バングラデシュの首相に選ばれ、就任した。暗殺から34年経った2009年の11月、最高裁判所は暗殺実行犯である元軍将校12人全員(国外逃亡者、死亡者含む)に対して死刑の判決を言い渡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Sheikh_Mujibur_Rahman ([]内)
 ムジブ(Mujib)は、東西それぞれへの自治権の付与を公的に主唱するとともに、東ベンガルの分離独立を密かに推進したことで、その部隊要員の殆んど全員がパンジャブ州等の西の方の諸州出身でありベンガル人に対して何の愛情も抱いていなかったところの、<パキスタン>軍を怒らせた。・・・
 <他方、>ニクソンとキッシンジャーは、ヤヒア・カーンを毛沢東の中共との秘密の通信経路として使っていた。
 1971年7月のキッシンジャーの中共への秘密裏の旅・・それは、1972年2月の同国へのニクソンの画期的な訪問への道筋をつけるためだった・・のお膳立てをしたのはヤヒア・カーンだった。
 ニクソンとキッシンジャーは、中共を米国の友人へと変えることで冷戦中のソ連に王手をかけるという彼らの事業に対して何物をも干渉させない決意を抱いていた。」(A)
 「当時・・・中華人民共和国は文化大革命の混沌から抜け出しつつあったばかりだった。
 ニクソンは、米国を、大災厄的方法を用いることなくヴェトナムから撤退させたいと必死だった。
 従前より以上にソ連のことが気になっていたことから、彼とキッシンジャーは、中共との経路を開くことは、ソ連に対してその中共との競争関係に付け込むことで痛手を与えつつ、ベトナム戦争に関して自分達の助けになりうる、と信じていた。
 パキスタン、就中、その軍事的指導者のヤヒアは、ニクソンと中共の指導者たる周恩来との間の秘密仲介者となった。
 ヤヒアは、キッシンジャー、そしてそれに次いでニクソンの訪中の地ならし、を助けた。
 どれだけそれが地球を様変わりさせるものである(earth-changing)と彼らの中共への旅を見ていたか、そして、それを実現することがどれだけ重要であると彼らが思っていたか、は<、いかなる言葉で形容しても、>決して誇張ではない。」(B)
 「更に重要なことがあった。
 パキスタンは忠実な冷戦の同盟国だったのに対し、インドはソ連寄りであると見られていた。
 決定的だったのは、キッシンジャー氏が、1971年初に、パキスタンを、中共への必須の秘密の道(essential secret conduit)として用いていたことだ。
 彼は、イスラマバード経由で北京に飛び、ニクソンが彼自身が毛沢東と会うための旅をすることをお膳立てしたのだ。」(F)
(続く)