太田述正コラム#0229(2004.1.14)
<孫文(その2)>

2 孫文と日本

 まずは、ざっと日本に関わる孫文の言動を追って見ましょう。

「いま日本の軍国主義者がその侵略政策を中国に強行しようとしても、目覚めた中国は全力でこれを拒否するし、列強もまた日本の独占を許す者でない」(孫文が、1919年に発した「国際共同発展中国実業計画」より。『孫文傳』鈴江言一著(岩波書店 昭和47年第八刷)より。http://www.h5.dion.ne.jp/~mikawak/kyouikushiryou/sonbun.htm(1月12日アクセス)より孫孫引き)
「われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それはなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟するよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかることがわれわれの希望である。」(1923年に孫文がある日本人に語った言葉。田中正明「アジア独立への道」展転社、1991年61頁(http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog043.html(1月12日アクセス)より孫引き)。
「我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。・・我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」(1924年の大アジア主義演説。萬晩報(yorozubp)前掲)
孫文が北京で死亡する直前、萱野長知という日本人が病床に呼ばれ、孫文は「犬養先生、頭山先生は、お元気か」と聞き、更に「わしが神戸でのこした演説は日本人にひびいたか、どうか?」と問うた(biglobe前掲)。
そして孫文は、「余の力を国民革命に致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求めるにあり。四十年の経験を積んで、この目的に到達せんと欲するには、必ず須らく民衆を喚起し、世界の平等をもって我に対する民族と連合して共同奮闘すべきことを知る。現在、革命なほ未だ成功せず」という遺書を残して59年の生涯を閉じた(dion前掲)。

いかがでしたか。
全く孫文の言うとおりだ、「戦前」の日本人は間違っていた、と相当多くの方がお感じになったのではないでしょうか。
実際、敗戦直後にあの石原莞爾が次のように言っています。
「日本人は<大アジア主義演説での孫文>の忠言に耳を藉さなかったのみか、支那事変勃発後も、自称大亜細亜主義者すら覇道の犬たる行為を反省せず、ついに今日の結果を招いたのである」(「石原莞爾選集7 新日本の建設」(たまいらぼ)の戦後論述集のなかの「新日本の建設」208頁。 http://www.asyura2.com/2us0310/dispute14/msg/121.html(1月12日アクセス)より孫引き)と。

しかし、支那事変を拡大して行ったことへの批判は正しいとしても、石原のこのような総括の仕方は誤りであり、石原の知性の限界を示すものです。(拙著「防衛庁再生宣言」においても、敗戦後の石原の吉田ドクトリンへの「改心」を揶揄した(同著236 頁)ところです。)
なぜならば、孫文の言う「東洋王道の干城」(大アジア主義演説より)たれとは、日本に「英米を覇者とする白人の帝国主義の被害者たる亜細亜民族を連ね、更に白人中の被害者側に居る露西亜、独逸と結び、世界的に思想を根拠とする解放戦争を演出せんとする」孫文(「大アジア主義演説」に感銘を受けた中野正剛が、仮名で1925年に書いた「孫文君の去来と亜細亜運動」という雑誌論文より。松本前掲131頁)らに組せよと迫るものだったからです。
すなわち、孫文は一貫して日本に対し、自由・民主主義のアングロサクソン文明との連携をやめ、全体主義の欧州文明側に組するように迫り続けた、ということです。
孫文の呼びかけを謝絶した圧倒的多数の「戦前」の日本人は、正しかったのです。

(続く)