太田述正コラム#0230(2004.1.15)
<孫文(その3)>

 孫文の呼びかけに対し、これを最初に明確に拒否した日本人が頭山満(1855??1944年)でした。
 その頭山は、孫文が死ぬ直前まで犬飼毅とともに口にした、「亡命時代に自分をかばってくれた日本人」(大アジア主義演説より)の一人でした。
一体、1877年に玄洋社を創設し、国家主義、膨張主義、右翼の重鎮と称される頭山がどうして孫文を庇護し、やがて孫文と見解を異にするに至ったのでしょうか。
まず、頭山ら、「戦前」の正統派「右翼」の源は自由民権運動だということを理解する必要があります。例えば、中江兆民(1847??1901年)と頭山満は親友であり、中江の生前の二人の考え方は殆ど同じでした(松本健一「竹内好「日本のアジア主義」精読」岩波現代文庫68頁)。
その頭山の一番弟子が内田良平(1874??1937年)であり、1901年に黒竜会を創設するとともに、著書「露西亜亡国論」を上梓(発禁処分を受ける)し、その中で「極端なる民族は極端なる革命を要す。彼が革命は、少なくともフランス革命以上の鮮血を流さざるべからず」とボルシェビキ革命を予言するとともに、「吾人にして万一正義のために蛮露と戦うて倒れたりとせんか、後世の史家は、必ずや書していわん、二十世紀の劈頭に日本民族なるものありて、不幸なる巨億の蛮人を救済せんがために健気にも仁義の師を興し、終に健闘して強敵の滅ぼすところなると。これ名誉の敗亡なり。」と対露主戦論を唱えました(松本前掲72頁)。
その翌年の1902年には、実態は対露同盟であるところの日英同盟が締結されます。
内田が悲痛な思いで待ち望んだ日露戦争は、その二年後に始まり、幸いにも日本が辛勝するのですが、この戦争は、既に憲法を持ち、自由・民主主義確立への道を着々と歩んでいた日本が、全体主義のロシアから日本、ひいては世界を守るとともに、ロシア民衆を解放するためのものだ、と内田を始めとする当時の日本の自由・民主主義者達はとらえていたのです。
この日露戦争の結果、日本は韓国と満州に権益を獲得することになります。しかしそれはあくまでも、依然としてあなどれない全体主義ロシアに備えるためのものと認識されていました。
内田が朝鮮人の李容九とともに日韓合邦論を推進したり(http://seisantou-k.hp.infoseek.co.jp/iyongu03.htm。1月14日アクセス)、頭山が支那の革命を夢見る孫文を支援したりしたのも、自由・民主主義理念をいただく改革政権を朝鮮半島と支那で樹立した上で、これらの政権と日本が提携し、全体主義ロシアに共同であたるためでした。
第一次世界大戦中の1915年、日本は「対華21カ条要求」を袁世凱政権につきつけ、受諾させるのですが、この要求は、やはりロシアの脅威に備えるため、日本の支那における権益の維持拡大、及び混乱期に入っていた支那の保護国化、を意図したものであり、これまた当時の日本の自由・民主主義者達の期待に答えるものでした。
 例えば、大正デモクラシーの旗手たる吉野作造は、「対華21カ条要求」は「帝国の立場から見れば、大体に於て最少限度の要求である」(「日支交渉論」。http://www.human.mie-u.ac.jp/~sakuradani/sk20030624.pdf(1月14日アクセス)より孫引き)と述べています。
 その後孫文は、(内田が予言した通りの血なまぐさいボルシェビキ革命の結果生誕した)ロシアの後継国家たる全体主義ソ連と提携する動きを見せます。(ようやく自由・民主主義が確立しつつあった)日本の自由・民主主義者達は、この頃から日本が、ロシアと支那とが合体した巨大な全体主義勢力の脅威に晒される、という悪夢にうなされ始めるのです。
こういう時、1921年に日英同盟が解消されてしまいます。
以上の経緯からすれば、1924年に孫文が「大アジア主義演説」を行う直前、神戸で頭山と会い、「対華21カ条要求」廃止に尽力して欲しいと要請したのに対し、頭山が「満蒙地方・・に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還附すべきであるが、目下オイソレと還附の要求に応ずるが如きは、我が国民の大多数が承知しないであろう」とにべもなくはねつけた(松本前掲114??115頁)のは当然のことだったのです。

(続く)