太田述正コラム#0233(2004.1.18)
<漢人の特徴(その2)>

2 日本人による評価

(1)「戦前」(1938年):津田左右吉

  ア 漢人の思想
「学説としての理論を立てるのが主旨では無く、直接に現実の政治を指導し道徳を指導しようとしたものであるところに支那思想の特色があり、従つてそれは普遍性の甚だ乏しいものである。」(津田左右吉「支那思想と日本」岩波新書1938年 7頁)、「<支那の>政治や道徳の思想・・について第一に注意せられるのは、すべてが人を本位とし人に始終してゐることであつて、この意味に於いて支那思想は非宗教的である。」(10頁)、「<支那の>宗教・・はどこまでも災を去り福を求めるための祈祷や呪術であるので、道徳<や>政治と・・の結合は外面的の混淆に過ぎない。・・道徳説政治説に於いて<は>人の肉体的物質的欲求を充足することが基本としてとして考へられる傾向があった・・名利欲権勢欲もまた従つて是認せられて来る。」(13頁)、「儒教<における>孝は、孝経によれば、身を保ち家を保ち禄位富貴権勢を保つことであり、・・礼は上記の欲求を正当視し一定の外的秩序によつてそれを規制するものである。道家はかかる欲求をを離脱すべきことを説くのであるが、それも畢竟、身を保ち生を保つがためであつて、欲求をすてることによつておのづからその欲求が充たされるとするのが主旨である。・・神仙説、養生説は勿論のこと、保身の道たる隠逸の思想も上記の道家の保身の道も、畢竟、自己本位の考へかたであり、一種の利己主義である。」(13??14頁)

イ 漢人の社会
 (ア)漢人の思想の背景
「・・それは主として社会組織が散漫で人の生活に於ける社会連帯の観念が無く、従つて社会意識が発達しなかったところに由来があらう。集団生活と其の意識とを有たなかつたことは、いふまでもない。支那人の道徳は、例へば父子君臣夫婦といふような特定の関係のある個人と個人との間にのみ存するものとせられ、社会もしくは集団の全体に対する道徳のあることは、全く考へられなかったが、これもまたそのためである。支那人にとつては、自己と広い意味での自己である家族との外には生活が無かつたといつて大過が無い。」(14??15頁)、「<書き言葉としての>支那語は論理的な思索には適合しないものであり、寧ろそれを妨げるものである。」(27頁)、「哲学的思索の如きは支那人にとつては最も短所であり、また全体に実利的な支那人はそれを尊重もしない。」(192頁)、「支那人の考へ方は、事物を事物のままに受入れ観念の連合によつてその間に外面的な関係をつけるところに特色があるので、結果から見ればその関係は甚だ恣意なものとなつてゐる。これは畢竟、支那人の思想が実用的であるところから来ている。そこに何等の分析も論理も無い」(140頁)、「一体に事物に対する探究心が乏しく感受性も鈍いのが支那人である。」(174頁)、「支那の社会が固定し支那の文化が固定してゐた如く、またそれに伴つて、その思想もまた固定してゐたのである。」(3頁)、

(イ)漢人の社会
「家族の一々に独立の人格を与へず独立の人として活動することを認めない・・国家とか公民といふ観念が全く無く、君主の民衆を服従させることが即ち治国平天下で<ある>」(188頁)、「貴賎尊卑の秩序・・が人と人との関係の本質と見なされた」(17頁)、「学問や文芸は全く権力階級のものであつて民衆のものではなく工芸技術とても同様である。解し難く用ゐ難い煩雑な文字の行はれたのも、文字が民衆のものでないからである。」(22??23頁)、「弱いと見たものに対しては、いかなることをもしかねないのが、支那の民族性の重要なる一面である。」(まへがき6頁)、

ウ インド・支那と日本
「支那に於いて仏教がいつのまにか衰へて来たのは、・・仏教が支那の民族生活の内的欲求に深い関係の無いものであつたことを示すものに外ならぬ。」(136頁)、「支那の文字を用ゐ・・<かつその文字で書かれた、>当時の日本人のよりは遥に程度の高い文化の所産である・・支那思想<の影響を受け>・・日本人の思想が変化して来た」(32頁)、「<日本人が>支那の書物を多く読みながら支那思想を思想として玩索し理会することができず、全体に思索の力が乏しかつたことについては、・・支那思想そのものが深い思索から出たものでなく、支那語支那文が思索には適しないものであるといふことが、注意せられねばならぬ。」(39頁)、「<日本では>儒教は書物の上の知識として、思想として、学習せられ講説せられたのみであつて、・・日本人の・・実生活には初から入りこまず、また入りこむことのできないものであつた」(161頁)、「仏教は・・信仰としては日本人の生活に入りこみ得るところのあるものであり、事実また入りこんで来た。従つてまたそこから仏教の日本化が行はれたのである。」(164頁)、「日本と支那と、日本人の生活と支那人のそれとは、すべてにおいて全くちがってゐる」(まへがき3頁)、「インドと支那を含めた東洋の歴史といふものは成立せず、東洋文化といふものも存在しない」(148頁)、「支那もインドも長い歴史を経過しては来たが、実は時間が長いのみで歴史は短いといつてもよい。・・畢竟上代史の延長があるのみである。・・インドや支那の文化を我々が保持する必要の無いことも、また知られるであらう。」(196??197頁)、

  エ 「戦前」の支那
「日本が現代化したに反し、現代文化の世界から取残されてゐるのが支那である・・若い知識人の多くが科学的精神を理会せず、科学の分野に於いて何ほどのしごとをもはたらきをもしてゐないのが、その最もよい証拠である。」(181頁)、「民族意識国家意識・・の弱かった、或は無かった、支那人の間に急速に、また強ひて、<民族意識国家意識を>つぎこまうとして、目的のために手段をえらばず目前の謀のために永遠の計を忘れるのが常である、或は自己の言動にみづから昂奮してその正否を反省することのできない、支那の一部の政治家や知識人の気質から、さうしてまた人人の権勢欲やそれに伴ふ術策がそれに結びついて、後には国際信義をも無視し人道をも無視するやうになったといふみちすぢのあることをも考へねばならぬ」(まへがき6頁)、

  オ コメント
 私が付け加えることは何もありません。
引用したこの津田の著作は、典拠が全く記されていないという問題はありますが、希代の名著であり、支那を論ずるにあたっては、まず最初に読むべき古典です。(漢字は当用漢字に変えました。)
 津田は、前回の三名のように「漢人社会の腐敗体質」を直接論じてはいませんが、その「腐敗」のよって来るゆえんを完膚なきまでに明らかにしている、と言えるでしょう。
いずれにせよ、彼の指摘は、「エ 「戦前」の支那」を「エ 現在の支那」に置き換えてもそのまま通るように、ことごとく全く古びてはいません。

(続く)