太田述正コラム#0234(2004.1.19)
<孫文(その4)>

3 支那はいかなる路線を採択すべきだったのか

 清崩壊後の支那はいかなる路線を採択すべきだったのか、ここで改めて考えて見ましょう。

 (1) 自由・民主主義路線
孫文の同志であった宋教仁(Song Jiaoren。1883??1913年)は、英国や日本を範例とする、自由・民主主義に立脚した議院内閣制を1911年の辛亥革命直後の支那・・最初の中華民国臨時大総統は孫文でしたが、すぐ北洋軍閥を率いる袁世凱(Yuan Shikai。1859??1916年)にとってかわられます・・にただちに樹立しようとしました。
しかし第一に、支那には英・日に見られるような「多元主義と寛容の精神」が存在せず、支那が英・日のように、「社会・政治の基本構造(edifice)の安定を揺り動かすことなく、最も抜本的な革命を発動(affect)すること」ができる社会(コラム#84及び#223参照)でもないことはやむなしとしても、第二に、支那では津田の言葉を借りれば「社会組織が散漫で人の生活に於ける社会連帯の観念が無く、従つて社会意識が発達しなかった」のであり「民族意識国家意識・・<が>弱かった、或は無かった」(コラム#233)だけでなく、第三に、当時の支那民衆の教育レベルは低すぎました。
これを一言で言えば、当時の支那は魯迅のあの阿Qの世界(「阿Q正伝」『魯迅選集』(岩波文庫1935年)に収録)だったということです。
そんなところで、自由・民主主義に立脚した議院内閣制が機能するはずがなかったのです。
1912年に宋教仁は国民党(孫文が後につくった中国国民党とは別)を結成、翌1913年には総選挙を実施し、国民党は第一党になります。そして支那で初めて議会が開かれました(http://www.cctv.com/english/TouchChina/China20th/20020820/100065.html。1月19日アクセス)。しかし、宋は袁の放った刺客に殺されてしまい、宋一人を失っただけで、自由・民主主義路線は頓挫してしまうのです(http://www.cctv.com/english/TouchChina/China20th/20020910/100336.html。1月19日)。

(2) 帝政復活路線
1913年に正式に大総統になっていた袁世凱は、宋の路線が非現実的であることを知っていました。彼が追求したのは帝制復活路線(易姓革命路線)であり、これは支那の伝統に即しているだけに成功する可能性がありました。そもそも、袁世凱に帝政を勧めたのは、米コロンビア大学教授フランク・グッドナウだといいます(横山宏章「孫文と袁世凱――中華統合の夢」岩波書店1996年(http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000402Sonbunto.htm(1月12日アクセス)が要約)から示唆を得た)。
袁は、1915年に日本の21カ条要求を受け入れ、同じ年に帝政を実施しますが、21カ条要求受け入れに対する反発もあり、帝政に反対する蜂起が支那各地で起こり、やむなく翌1916年、帝政を取り消し、失意のうちに死去してしまいます(http://www.tabiken.com/history/doc/C/C149R100.HTM。1月19日アクセス)。

 (3) 民主主義独裁路線
生き残ったのは、袁世凱と同じく、宋教仁の路線が非現実的であることを知っていた孫文でした(横山がらみの前掲)。そして彼が1919年に採択したのが民主主義独裁路線だったのです(コラム#228)。
興味深いのは、支那の「革命」初期に宋教仁らに協力した北一輝(1883??1937年)が、米国かぶれでまだ腰の定まっていなかった頃の彼の記憶の中の孫文について、1921年に、「孫逸仙君<は>1911年の革命においては全く局外者なり」(北一輝「支那革命外史 抄」中公文庫2001年(原著は1921年)59頁)、「孫君の理想は・・最初より錯誤し、支那の要求するところは孫君の与えんとするところと全く別種のものな・・り」(同23頁)と批判した上で、「国家民族主義は、・・支那に・・て革命の科学的理解とならざるを得ず」(同31頁)、「この武断政策による<支那の>統一は当然に中華民国を軍国主義の上に築くものなり」(同158頁)と民主主義独裁路線の採択を推奨していることです。孫文が既にその路線を採択していたのに気づかなかったのはご愛嬌ですが、北の預言者としての冴えを感じさせます。(北は、将来の中ソ対立まで予見しています(同160頁)。吉野作造は、北のこの本を「創作した講談本」と酷評したといいます(前掲「支那革命外史 抄」の宮崎学氏による後書きの173頁より)が、これは秀才吉野には野人北の冴えを感得する能力がなかったということでしょう。)
 まことに孫文のこの路線は「現実的」でした。民主主義独裁路線は支那の住民に諸手を挙げて歓迎され、やがてこの路線は、蒋介石のファシズム路線と毛沢東のマルクス・レーニン主義路線に分かれて行くわけです。そして、その双方から、支那の住民は恐るべき被害を受けることになります。

(4) 日本との提携路線
最後に登場したのは、汪兆銘(Wang Zhao ming。1883?1944年。汪精衛ともいう)に代表される路線です。
汪は、「中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出してい<る>・・。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動している・・。<これは>謀略<だ>」(上坂冬子「我は苦難の道を行く・上」講談社1999年 246頁)という認識を持っていました。
ところが1936年の西安事件の結果、蒋は第二次国共合作に同意してしまいます(コラム#178、#187)。
そこで1939年、「我は苦難の道を行く」(上坂前掲タイトル)と記した書簡を送って蒋と袂を分かった汪は、日本と示し合わせて南京政府を樹立します。そして、軍事・外交こそ日本頼みでしたが、行政、治安、経済、教育施策に意欲的に取り組み、困難な状況下で多大の成果をあげます(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/official/doctor/d2000_34.html。アクセス)。
しかし、米国によって追い詰められた日本は、1941年にやむなく対米開戦してしまいます。
その時汪は「この戦争は間違いです。日本はアメリカと組んでソビエトと戦わねばならないのです。真の敵はアメリカではありません。しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお国に協力します。同生共死ということです。」(小山武夫「私の見た中国大陸五十年」行政問題研究所1986年83頁(http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog140.html(より孫引き))と語り、自らと自らの路線の運命を読みきり、覚悟を決めるのです。

コリン・ロスは、1939年に「東アジアに居住する<日中>両民族の連合もしくは友好協力関係が実現される事態となれば、東アジア地域は世界最強勢力となるだろう。」(ロス前掲287頁)、「30年前の朝鮮<と>5年前の「満州国」・・は、今日の占領下の中国と非常によく似ていた。しかしその間に朝鮮、あるいは満州在住の日本人に対する感情は大いに改善された。同様のことが<占領下の中国>でも・・<まず>華北<で>起こるであろう。・・<このようにして、東アジアにおける>近未来は日本人<のものになる。>しかし遠い未来は中国人に属するであろう」(190頁)と予言しています。
この予言は、当時の東アジアへの米国の恣意的な介入(コラム#221)さえなければ、恐らく実現していたことでしょう。
米国が犯したこの深刻な過ちは、米国にとって、第一の原罪である黒人差別(コラム#225)と並ぶ第二の原罪と言ってもいいでしょう。そのどちらも、背景には米国の建国者たるアングロサクソンのアングロサクソン至上主義があるのです。
マクナマラ(コラム#213)ら以外の米国人は、一体いつになったらこの第二の原罪を直視するのでしょうか。

(完)

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