太田述正コラム#6996(2014.6.14)
<皆さんとディスカッション(続x2294)>
<太田>(ツイッターより)
 お懐かしや、イラクのシーア派愛好指導者シスタニ師の代理人がみんな武器をとってIsisと戦えと呼びかけ、イランは既に革命防衛隊2個大隊をイラクに派遣し、Isisは事実上バグダードの包囲を完了。
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-27834462
 まるで、アラビアのロレンスの時代みたいだな。
<現在18:00頃だが、>八幡市でのセミナーを終え、市長さんと懇談の後、新幹線で帰京中。年配の方が中心だが聴衆60名近くの大盛況だった。
 準備を手伝ってくれた読者お三方にお礼を申し上げたい。
 後、4回、聴衆が目減りしないといいのだが。
 なお、記事の紹介抜きのディスカッションを、新横浜に着くまでにアップする予定。
<globalyst>
≫ハシェミテ王家出身の国王≪(コラム#6994。太田)
 イラクにはファイサル2世の従兄弟にあたる二人の王位請求者がいるらしい。
「ファイサル2世の従兄弟シャリーフ・アリー・イブン・アル=フセインが、現在のイラク王位請求者である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイサル2世_(イラク王)
 英語版のウィキペディアでは、List of current pretendersのIraqの欄にRa’ad bin Zeid の名前が挙がっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_current_pretenders
 フランス語とアラビア語板では上記二人の名前が挙がっている。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Pretendant_au_trone
http://th.wikipedia.org/wiki/ผู้อ้างสิทธิในราชบัลลังก์
 改めてこれに関連するウェブサイトを色々見ているうちに、イラクの戦争後処理に、中東で立憲君主国として上手くいっていると思われるヨルダンを参考することは出来たように思うようになった。
 つまり、Ra’ad bin Zeidの息子Zeid bin Ra’ad(父と息子で名前の順序が入れ替わっているだけで、アラブ人の名前は難しい)が現在UN High Commissioner for Human Rights(国際連合人権高等弁務官)であり、またケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジ出身らしい
http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Zeid_bin_Ra’ad
ので、先ず、父Ra’ad bin Zeidを王位につけ、その後に子Zeid bin Ra’adをヨルダンのAbdullah(コラム#0055)に見立てて王位を承継させることは難しくなかったと思う。
 シャリーフ・アリー・イブン・アル=フセイン(Sharif Ali bin al-Hussein al-Hashimi)が、如何なる人物かは、よく分からなかった。
<太田>
 米国文明のキメラ性については、やはり、私自身が詰め切れてなかったからこそ、TAさんが呻吟する羽目になっている、という気がしてきました。
 まだ、曖昧模糊としているのですが、キメラ中のアングロサクソンについてはともかく、欧州については、例えば、欧州文明が生み出した思想ではあるけれど、欧州では基本的に実施に移されなかったところの、キリスト教原理主義と市場原理主義を、米国は実施に移した、ということではないでしょうか。
 で、例えば、キリスト教原理主義の風化、ないしはキリスト教原理主義への反発がリベラルキリスト教を生み出した、と捉えるわけです。
 そこで、第三回のセミナー用のキメラ性のスライドの原案は私がつくることにしたいと思います。
 関連コラム等でのサポートをよろしくお願いします。
<TA>
 「詰め切れてなかった」との言葉に驚きました。
 これから土日を使ってたっぷり「呻吟」しようと思っていましたが、いい機会なので、このままのんびり「呻吟」を満喫しようと思います。             
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 下掲は、本日、八幡市のセミナーで講師を務める時に用いるレジメ・・但し、スライドをコピペした部分は省いてある・・を若干敷衍したものです。
       ———————-
            第1回 はじめに、我らの日本
I  はじめに
 セミナーの予定
   国際問題セミナー「国際社会における日本の役割」
第1回 はじめに、我らの日本
第2回 イギリスとヨーロッパの違い 
第3回 アメリカって何だろう
第4回 隣国のロシア、そして中国
第5回 イスラム世界等 おわりに
 第2回の翌日に神戸オフ会。
 申し込みはこちらから http://www.ohtan.net/meeting
 メールで質問受け付け:http://www.ohtan.net/contact/ 
 掲示板        http://www.ohtan.net/board/bbs/
 その他 HP http://www.ohtan.net/
     ブログ http://blog.ohtan.net/
 このレジメに私のコラム#が出てくるが、上記ブログを開き、検索をかければ読むことができる。
     
 私がこのような話をする「資格」
 ・イギリスとヨーロッパとイスラム世界が混在していたエジプト育ち。
 ・イギリスには1年間住み、ヨーロッパには1か月住んだ。
 ・中国は日本が最も長い関係を有する世界。
 ・ロシアは、役所に勤めていた頃の最大のお得意様。
 ・アメリカはイギリスとヨーロッパのあいのこ。
 ・アメリカには2年間住んだ。また、役所時代にアメリカの外交官や軍人相手に仕事。
 ・役所時代にも、世界の多数の国を訪問。
 ・法学、経営学、政治学、軍事を学んだ。
II 我らの日本
 1 問題意識
 どうして、敗戦を機に日本は180度変わってしまったように見えるのか。
 自衛隊は何を守るのか。(領域x、国民x、主権〇)
 では何から守るのか。ロシア(当時はソ連)や中国や北朝鮮は潜在敵国だが、ソ連を含め、軍事能力的には(核を除けば)脅威ではない。悪い奴(ら)だから脅威。
 でも、どうして悪い奴(ら)なのか。
 自由民主主義じゃないから?
 逆に言うと、日本が守るべきものは自由民主主義なのか?
 守るべき固有のものはないのか。それが普遍性のあるものであればなおよい。
 でも、日本は、比較的最近も180度変わってしまったように見える。
 果たして、そういった変化を超えて、日本で変わらないものはあるのか、あるとしてそれは一体何だろうか。
 2 変わらないもの=人間主義
 人間主義については、最終回に改めて取り上げる。
 とりあえずは、イメージを掴んでもらいたい。
 忘れてはならないのは、その自然への優しい眼差し。(日本式庭園、俳句)
 人間主義的統治
  仁徳天皇:民本主義
  北条時頼:最高権威と最高権力の分離+権威/権力の分散+権威/権力の清貧性
        (コラム#6716参照)
       エージェンシー関係の重層構造
        権威/権力:天皇(最高権威)→征夷大将軍→得宗(最高権力)→執権 
        土地支配(至太閤検地):
         荘園・・   本家 → 領家 → 荘官
         公領・・ 知行国主→ 国司 → 郷司等 (コラム#6827参照)
(1086年:白河天皇が上皇となって院政開始。1185:平家滅亡、守護地頭の設置。
    1192年:頼朝、征夷大将軍に。この時点では、頼朝個人が最高権力者になったと
    いうことであって、征夷大将軍が最高権力者になったのは、室町幕府の第三代将
    軍足利義満の時。(コラム#6920)
    1221年:承久の乱。《時頼(執権:~1256年。死:1263年)》以降、執権は、長
    時(1256~64年)、政村(64~68年)、《時宗(68~84年(死))》、《貞時(
    1284~1301年。死:1311年)》、師時(1301~11年)、宗宣(11~12年)、煕時
    (12~15年)、基時(15~16年)、《高時(16~26年。死:1333年)》、貞顕(
    1326年)、守時(26~33年)だが、得宗は、時頼→時宗→貞時→高時。)
 人間主義に基づく司法・行政
  板倉勝重:法令、先例に羈束されない司法/行政 (コラム#5105、6717参照)
   江戸町奉行(2名)
    警察・司法:奉行→与力→同心→小者・手先(アルバイト)
    一般行政 :奉行→町年寄→名主→地主→家主 
    (若桜木虔『誰も書かなかった 江戸町奉行所の謎』)
 人間主義に基づく富国強兵
  横井小楠:北条得宗家のもう一人の偉人・・「横井小楠の言」参照。      
 3 振幅の激しさ
  (1)序
   
 日本史をその始まりから大急ぎで振り返る必要がある。
  (2)日本文明の基層の形成(縄文時代)
 土器を(恐らく中国大陸から)獲得した日本列島の住民は、は、少なくとも1万4,000年以上前に、これで煮炊きすることによって、世界で初めて木の実や海産物を広範に食物化するに至り、狩猟のみに依存する生活から脱却し、定住化を果たす。
 当時の日本人たる縄文人は、1万年余・・14,000BC頃から300BC頃・・に及ぶ、本格的な農業を伴わないところの、しかし、世界史的に極めてユニークである、定着的な狩猟採集時代という縄文時代を経験することとなり、本来的に定着的な農業時代が到来した後においても、日本において狩猟採集時代の人類に普遍的に見られた人間主義を、引き続き維持することを可能にする社会的基盤・・私の言うところの、日本文明の基層たる縄文モード・・が形成される。
 
  (3)日本文明の成立(縄文文化回帰に向けての顕在的ベクトルの下での外来の稲作文化と固有の縄文文化の習合。弥生時代)
 弥生人・・軍事に長け改革志向・・が渡来。
 これは江南地域の寒冷化に伴い新天地を求めたもの。
 その時、稲作(水田耕作)を携えてきた。その時はモチ米。(モチ米はハレの行事のつきものに。)
 2000数百年前に起こったことでも、現在を規定することがある、という事実。
 (それより前の1万年間の縄文時代も恐らく同様。)
 モチ米にせよ、通常の米にせよ、米は反当収量が小麦等に比べてダントツに高い。しかも、小麦等と違って、連作しても地力が落ちない。玄米で食べればそれだけで足りる。
 結果、土地の広さを米の収穫力で表すとともに、米は通貨として使われることにもなった。
 弥生人の予期に反して、彼らは基本的に縄文人に歓迎され、縄文人は、弥生人を支配層として仰ぎ、初穂の形で収穫した米の一部を弥生人に捧げ、弥生人は、縄文人の人間主義に感化され、縄文人を人間主義的に統治した。
 こうして、原初弥生モードの表層が上述の基層の上に乗っかることによって、日本文明が生まれた。
 被支配階層に多い縄文人の方が支配階層に多い弥生人より多く、かつ、人間主義は人間の本来の姿であることから、以後、日本文明には、常に縄文時代に回帰しようとする、縄文モードに向けてのベクトルが働くことになる。
他方、支配階層を中心に、弥生人性は潜在的に維持され続け、日本が内生的・外生的危機に直面すると、それが顕在化し、その都度弥生モードに向けてのベクトルが発生することとなる。
 この稲作文化想起に向けての潜在的ベクトルのおかげで、人間主義の日本文明が、変質ないし崩壊せずに今日まで続くことができた。
 (コラム#6898参照)
  (4)拡大弥生時代(古墳・飛鳥・奈良時代。中国文明の継受)
 「縄文人のムラは環濠を形成しない傾向にある。・・・環濠集落は稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で消滅していく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
 (コラム#6821参照)
 万葉集:「歌の作者層<は>、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
  (5)第一次縄文モード(平安時代。表層におけるモード循環の初完結)
 拡大弥生時代は、平安時代(794年~)に入ってから間もなく、838~839年の遣唐使でもって唐との国家交流が事実上なくなった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
頃から、表層の本格的な縄文モード回帰が始まって第一次縄文モード入りして終焉を迎え、ここに日本史の第1回目のモード循環が完結。
 第一次縄文モードの時代を象徴するのが、死刑の廃止(810/818~1156年)と平和。
 「大同5年(810年)<の平城上皇との>・・・薬子<(くすこ)(尚侍(ないしのかみ/しょうじ))>の変<の際、>・・・嵯峨天皇<は、>・・・藤原仲成・・・<を処刑したが、>これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以降保元元年(1156年)の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89
 「嵯峨天皇が弘仁9年(818年)に盗犯に対する死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布した。死刑を全面的に停止あるいは廃止する法令が出されたことは無いものの、死刑の範囲が縮小するとともに実際に執行されることがなくなり、やがて全面的な死刑の停止が先例(慣習法)として確立されたと考えられている。・・・
 嵯峨天皇の宣旨から保元の乱の起こった保元元年(1156年)まで、338年の間、全国的に平時死刑は廃止され、京においては平時・戦時例外なく死刑執行は停止されていた。前近代においてこれほど長期間死刑が行われなかった例は世界史上ほかに存在しない。・・・
 また薬子の変以降、中央での政争が武力によって解決されることはなくなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91
 そして、源氏物語(12世紀初頭):「最初の小説、最初の近代小説、最初の心理小説、或いは依然として古典とみなされるべき最初の小説、と称せられることがある。」しかも、著者は女性。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Tale_of_Genji
  (6)第一次弥生モード(鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土桃山時代)
 朝廷の統治意思と能力の減衰に伴い自力救済の社会になったことから、武士の活躍する第一次弥生モードへ。
 (鎌倉時代になってからも戦乱が間欠的に続いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3 )
 第一次弥生モードを特徴づけるのは、再度の中国文明の継受に加えて、その末期における、プロト欧州文明の継受。
 –中国文明の再継受–
・鎌倉仏教
・茶文化の日本化
(華道の成立)
・宋銭の普及
・朱子学の導入
 (コラム#6922参照)
 –欧州文明の継受–
・ポルトガル人による種子島での鉄砲伝来(1543年)
・イエズス会のバスク人、(スペイン生まれでポルトガル王の委嘱を受けた)フランシスコ・ザビエルによる布教(1549年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2
 カール5世(Karl V., 1500~1558年日)は、「ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年)であり、スペイン国王(在位:1516年~1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。・・・スペインのユステ修道院に隠棲し、1558年に亡くなった。・・・
 1526年にポルトガルの先王マヌエル1世の王女で、互いに母方の従兄妹であるイサベル(イザベル、イザベラ)と結婚した。前年の1525年にイサベルの兄ジョアン3世とカール5世の妹カタリナが結婚するという二重結婚であった。また、カール5世の姉レオノールは1518年にマヌエル1世の3番目の王妃となったが、マヌエル1世とは1521年に死別していた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
 フェリペ2世;スペイン王(1556~1598年) ポルトガル王(1580年~1598年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E6%9C%9D
 ヘンリー8世のカール5世の叔母キャサリンとの離婚、すなわち、イギリスの欧州からの離脱(英国教会の成立)は1534年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC8%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 本能寺の変は1582年。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
 (落語の生誕:安楽庵策伝(1554~1642年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E5%BA%B5%E7%AD%96%E4%BC%9D )
 (7)第二次縄文モード(江戸時代)
 (渡辺京二著の『江戸の幻景』を取り上げたコラム#1476、同じ渡辺京二の『逝きし世の面影』を取り上げたコラム#1503から1519に至るシリーズ、石川英輔のいくつかの著作を取り上げたコラム#1480、1482、「江戸時代の民主主義」を論じたコラム#1607、1608、1610、1613、「江戸時代における外国人の日本論」を論じたコラム#6769から5805に至るシリーズ(現在毎日公開中)、を参照)
 (8)第二次弥生モード(明治・大正時代。アングロサクソン文明の継受)
 黒船来航を契機とするモード転換。
 横井小楠コンセンサスに基づく内外政策を推進 (コラム#1609、6579、6581参照)
 ⇒明治期の伊藤博文(コラム#4772以下4792に至るシリーズ)、山県有朋(コラム#6733)、中江兆民(コラム#1610)、(昭和期の帝国陸軍(多過ぎるのでコラム#省略))
 (9)第三次縄文モード(昭和・平成時代)
 敗戦を契機に戦前・戦中の日本が180度変わってしまったのは、第二次弥生モードの明治・大正期を通じて継受にこれ努めたアングロサクソン文明が、日本で政治面でも経済面でも機能障害・・二大政党間の醜い政争/成金の出現、等・・を起こし、その程度が次第に深刻になって行ったことを背景として、昭和に入った頃から縄文モードへの回帰が始まったところ、中国情勢の混沌化、ロシアの赤露化、日英同盟の解消、世界大恐慌の波及、等、本来、弥生モード化を促すはずの国際情勢の下、国家総動員体制の構築に藉口して縄文モード化・・日本型政治経済体制の構築・・が進展し、敗戦を契機に、日本が一気に第三次縄文モード入りをしたから。
 (10)展望
 拡大弥生時代、第一次弥生モード、第二次弥生モード、と広義の弥生モードの時代が次第に短くなってきているところにも、縄文モードの深化、浸透がうかがえる。
 課題は、日本が、アメリカの属国から脱するとともに、第三次弥生モードに転換するのではなく、両モードを止揚すること。
4 終わりに
 このセミナーは、私が役人時代に仕事に取り組みながら考え始めたことに対する、一応の答えを皆さんにご披露するのが目的。
 孫子の「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」的に言えば、1回目で己、つまり日本、について知ったわけだが、引き続き、2回目で敵と味方の原型であるところの、ヨーロッパとイギリスとを知り、3回目でアメリカが主たる味方なのかそれとも敵なのかを見極め、4回目で、かつて主敵だったロシアについて改めて知るとともに、中国が主敵なのかそれとも味方なのかを見極め、5回目で敵でも味方でもないイスラム世界とインドを知り、最後に人間主義日本の使命を自覚する。 
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 一人題名のない音楽会です。
 John Ogdonシリーズの途中ですが、彼が演奏するリストのピアノ協奏曲第1番と第2番の演奏が公開禁止になった話を記したところ、これまでこの2曲を一人題名のない音楽会で取り上げたことがないので、忘れないうちに取り上げておくことにしました。
 大作曲家は大抵ピアノ協奏曲を作曲していますが、名曲は1曲だけ、というのが相場であり、リストに関しても、名曲は第1番だけです。
 しかし、第2番も佳曲ではあります。
 このほか、時期的には一番最初に作曲されたと考えられている第3番(まあまあの曲)がありますが、ついでに、この曲も取り上げました。
 なお、アルゲリッチによる第1曲の演奏は恐ろしく力強いですね。
 男性ピアニストがノースリーブで演奏することはありえないところ、彼女の場合、ノースリーブゆえによく見える二の腕の逞しいのなんのって、女性離れした、というか、ピアニスト離れした、まるで筋トレをやっているかのような印象を受けるほどです。
 だからと言ってよいのかどうかはともかく、素晴らしい、の一言です。
Piano Concerto No. 1(注) ピアノ:Martha Argerich 指揮:von Dohnanyi オケ:RSO
http://www.youtube.com/watch?v=tZWGCfy-dTY
(注)1830年代~1856年にかけて作曲。「本作はトライアングルが第3楽章を中心に用いられているが、当時の楽器編成にトライアングルを用いることは非常に珍しいものであった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA_(%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88)
Piano Concerto No. 2(注) ピアノ:Mikhail Pletnev 指揮:Aleksandr Vedernikov オケ:Orchestra Sinfonica Nazionale della Rai
http://www.youtube.com/watch?v=ktnM8ZXrZI0
(注)1839~61年にかけて作曲。「全体<が>単一楽章で書かれており、ピアノと管弦楽が一体になったいわば交響詩ともいえる性格を呈して」いる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88)
Piano concerto no.3(posthumous)(注) ピアノ:Stephen Mayer 指揮:Tamas Vasary オケ:London Symphony Orchestra
http://www.youtube.com/watch?v=yHoVOet0s74
(注)第2番「と同様に単一楽章で書かれている。」生前、発表されず・・よって「遺作」とされる・・、ほとんど忘れ去られていたが、1989年に「発見」された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88)
(続く)
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太田述正コラム#6997(2014.6.14)
<長い19世紀(その7)>
→非公開