太田述正コラム#6789(2014.3.2)
<江戸時代における外国人の日本論(その7)>(2014.6.17公開)
4 明治時代初期
 江戸の風情を色濃く残す明治時代初期に関しては、最初に、清国の初代駐日公使の何如璋(He Ruzhang、1838~1891年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E5%A6%82%E7%92%8B
と共に、書記官として1877年に来日し、1882年まで日本に在勤した、黄遵憲(Huang Tsun-hsien、1848~1905年)を取り上げたいと思います。
 黄を知ったのは、張偉雄<(注7)>教授の東大学位授与論文(1995年)のまとめの部分を読んだ時です。
 (注7)「広州外国語学院、北京日本語研修センターを経て来日。東京大学総合文化研究科比較文学比較文化専攻修士博士課程修了。博士(学術)。現在、札幌大学文化学部教授。札幌大学孔子学院学院長。その間、ロンドン大学客員研究員、広東外語外貿大学、天津外国語大学客員教授を歴任。専攻、比較文学、異文化交流論、翻訳論」
http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%BC%B5%E5%81%89%E9%9B%84_200000000538876/biography/
 「黄遵憲<は、>・・・来日当初、黄遵憲は日本文化がただ中華文化の末流だという認識を持っていたが、日本に滞在する日が長くなるにつれて、日本の伝統文化の美を発見することができた。彼は、日本人の自然を愛する心、清潔を好む習慣を身近に感じ取ることができた。彼はこれを安定した社会、穏和な民心と関連して考えた。黄遵憲はこのような日本の社会、民風を理想的な桃源郷と見なしていた。この点において、黄遵憲はたえず自国での経験と比較しながら、彼の日本理解を確立したのである。絶えず動乱にさらされている母国では、民心も乱れていて、中国文人のたえず求めつつある理想中にある桃源郷は程遠い存在となっている。日本での桃源郷発見は、大いに詩人黄遵憲の心を慰めた。彼は一連の日本讃美の詩文を書き残し、自国民に彼の日本文化発見を示した。」
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=110882
 そこで、黄のウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%B5%E6%86%B2
にあたってみたのですが、これが実に充実しています。
 恐らくは、張が中心的執筆者なのではないでしょうか。
 以下は、長いですが、このウィキペディアからの引用です。
 「当時日本ではロシアの南下に極めて警戒感を持っており、朝鮮がロシアの影響下に入ることを極度に恐れていた。こうした意見に感化され、黄遵憲たちは日本よりもロシアへの警戒を募らせていったのである。・・・
 貧しく質素であっても庭木を愛する素朴な庶民、客が訪ねくれば細やかな気配りをする妻女、そして積極的に海外のことを知ろうとする日本人の好奇心など、黄遵憲は日本の美点を素直に認め賞賛している。特に彼が愛した日本の風習は桜の花見であった・・・
 <その黄は、>1882年・・・、サンフランシスコ総領事へと転任し、日本を離れた。・・・
 在米華僑問題への思いは「逐客篇」という詩に詳しい。この中で初代大統領ジョージ・ワシントンが万国と国交を持ち、いかなる民族も平等に住むことができると宣言してより百年も経たないのに、今のアメリカ政府はその言葉に背いても恥としない、と述べており、自由・平等を国是とするアメリカにおいてなされる非人道的な行為に黄遵憲が怒りを覚えていたことがうかがえる。
 3年後黄遵憲は一旦帰国し、『日本国志』・・・の完成に専念した。
 『日本国志』が一応の完成を見たのは1887年・・・である。作った四部のうち一部を手元に留め、のこりは総理衙門や李鴻章、張之洞に提出した。・・・印刷<され>たのは1895年・・・である。時あたかも日清戦争の敗戦後であって、明治日本の情報が渇望されていた時期であった。この書によって日本及び明治維新がどういうものであったか<が清で>広く知られるようになったのである。・・・
 この『日本国志』は・・・中国における明治維新観を決定づけたばかりか、それに範を取った改革、戊戌変法を推進する原動力の一つともなった・・・。戊戌変法を推進した康有為・梁啓超ら変法派は改革案の立案に際しこの書から着想を得ている。・・・
 黄遵憲について語られるとき、ほとんど必ず「愛国者」と「日中友好を唱えた人」といった類のことばがついてくる。近代の日中関係史を紐解くとき、この二つがなかなか両立しがたいことに気付くが、彼には違和感なくこれらのことばが同居する。外交官として国益を守るために強硬な態度で日本政府との交渉に臨んだが、日本人に憎悪されることなく、伊藤博文からは逆に敬意をもたれるような人柄であった。戊戌変法末期に日本公使に採用されたのも、日本側からの要請があったためである(ただし公使として赴任前に政変が発生し、渡日できず)。明治維新を高く評価し、その成功を中国にも率先して伝えようとし、また晩年には一族の若者や門弟を日本に留学させるなど、親日的である点は終生変わらなかった。以下に示す詩にあるように黄遵憲は、日中が手を結び、共に西欧列強に対抗することを夢見ていたのである。・・・
 日本と清国は共にアジアに位置し、
 昔から隣り合う国で和睦する様は、
 まるで輔車(ほお骨と下あご)が互いに助け合うかのようでもあり、
 あるいはまるで協力して敵に立ち向かうようでもある。
 両国ともが富国強兵となってこそ、
 そうして相互に助け合うことができる。
 同類どうし(富国強兵を)<(注8)>競い合えば、
 西欧列強の圧力を自然と無くすことができるであろう。
 (注8)富国強兵といった言葉が原詩に直接用いられているわけではない。
 <ちなみに、>黄遵憲は清末を代表する詩人としても著名である。「近世詩界三傑」の一人といわれた黄遵憲は、生涯を終えるまでにおよそ千首の詩を残しているが、作詩は10歳から始めたられた。その詩は新派詩として知られ、また本人は「詩界革命」の先駆者と目される。題材には日常の生活を選んだものが多く、たとえば『日本雑事詩』では、印紙や新聞紙、幼稚園など身近なものが取り上げられている。・・・」
 注目すべきは、四点です。
 すなわち、黄が、一、横井小楠コンセンサスを当時の日本人と共有するに至っていたこと、二、米国(ひいては欧米)に嫌悪感を抱くに至っていたこと、後半生を、三、支那による日本文明の継受、そして、その上での、四、日支両国の提携、に捧げたことです。
 思うに、トウ小平等の中共の指導者達は、先人達の黄の考えの実現に向けての努力が不十分であったことが清滅亡後の支那に大きな悲劇をもたらした、との痛切な認識を抱いた上で、遅ればせながら、徹底的な日本文明継受戦略たる改革開放戦略を開始し、現在に至っているのではないでしょうか。
 (思うに、黄は、一流の詩人でもあったからこそ、日本文明の精髄であるところの、人間主義に気付き、感嘆することが容易にできたのではないでしょうか。
 また、支那と米国との関係の初期が、(日本と米国との関係の初期とは大違いで、)かくも屈辱的なものであったことが、潜在的に、その後の支那人の米国観を規定して現在に至っている、と我々は考えるべきでしょう。)
 このような私の読みが正しいとすれば、日本が、米国から「独立」することは、日本自身にとってのみならず、支那のためにも急務なのであって、その前提として、黄の米国への嫌悪感を日本人が理解し、共有する必要がある、と私は考える次第です。
(続く)