太田述正コラム#6817(2014.3.16)
<網野史観と第一次弥生モード(その1)>(2014.7.1公開)
1 始めに
 私は、書評を載せていることについては、かねてより、朝日の電子版を評価してきたところ、遺憾ながら、書評そのものについては、短すぎるし、さっぱり書評対象の本や著者のことが分からないものばかりだ、と苦言を呈してきました。
 ところが、本日、同紙電子版で、大澤真幸(注1)による、長文の、しかも充実した、網野善彦の『日本の歴史をよみなおす(全) 』の書評
α:http://book.asahi.com/ebook/master/2014031400001.html?iref=comtop_list_cul_b02
に接し、これまで、私の言うところの第一次弥生モードについて、私が殆んど語ったことがなかったことを思い出し、網野の説を批判する形で第一次弥生モード、ひいては、改めて私の日本史観について、語ってみようと思った次第です。
 (注1)1958年~。東大文(社会)卒、東大で博士号取得、東大、千葉大を経て京大助教授、教授、2009年退官。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BE%A4%E7%9C%9F%E5%B9%B8
 (注2)1928~2004年。東大文(国史)卒、高校教諭、名大等を経て神奈川大教授、特任教授、1998年退官。学生時代に日本共産党入党・脱落経験あり。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E5%BD%A6
 私は、網野の『日本社会の歴史』(上・中・下)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%B6%B2%E9%87%8E-%E5%96%84%E5%BD%A6/dp/4004305004
を読んだことがありますが、生理的に受け付けず、途中までで読むのを止めた記憶があるだけに、今回、大澤が、網野の説の概要を興味をそそるような形で紹介してくれたことに感謝しています。
2 網野史観と第一次弥生モード
 以下、断っていない引用は、αからです。
 「日本・・・列島の社会の中では、二つの背反する力がせめぎ合っている・・・。・・・一つは、農本主義への指向性である。土地を中心に「日本国」を統一しようとする傾向だ。もう一つは、交易や商業に従事した、漂泊民に関係した力だ。つまり、海や河を舞台にして商業や流通のネットワークをつくり、ときには、列島の外にまで拡がる貿易関係を築こうとする動きだ。網野は、これを――農本主義と対比させて――重商主義と呼んでいる。」
 網野のこの基本的な日本史観については、後でもう一度触れますが、日本史が二元原理によって動いている、という点では、私の縄文モード・弥生モード論と良く似ています。
 「13世紀までの集落と15世紀以降の集落とでは、大きく質を異にしている。われわれは、多くの家が集まって集落を形成する、と考えでいる。これを「集村」と呼ぶとすると、12~13世紀の遺跡から確認できる村は、「散村」と呼ぶほかないものである。
 町についても同じような断絶がある。・・・
 現在にまでつながるような「町村制」(勝俣鎮夫)が現れたのは、15~16世紀である。それ以前の集落は、これとはかなり異なっていた。ということは、14世紀頃に、きわめて大きな社会的な転換があった、ということを意味している。」
 ちなみに、網野が拠っているらしい勝俣鎮夫(注3)は、「「この時代は,民衆が歴史を動かす主体勢力として,日本の歴史上はじめて,はっきりとその姿をあらわした時代」であり,「百姓たちがみずからつくりだした,自律的・自治的性格の強い村や町を基礎とする社会体制,すなわち村町制の体制的形成期であった」。<そして、>戦国時代<を>「近代日本の出発点」,「日本歴史を二分する大転換期」として位置づけ」ています。
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=TB12214226&elmid=Body&lfname=007000900007.pdf
 (注3)1934年~。東大文(国史)卒、東大院博士課程中退、東大教養学部助教授、教授を経て、神奈川大学短期大学部特任教授、学部長、東大名誉教授。著書、『一揆』、『戦国時代論』等。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BF%A3%E9%8E%AE%E5%A4%AB
 しかし、この勝俣/網野説には疑問符を付けざるをえません。
 「散村<は>・・・世界ではイギリスの大半、フランス西部からライン川下流域、イタリアのポー川流域、スカンジナビア半島、バルカン半島北西部、エジプト、台湾北部、中国・東北区の北部などで民族にかかわりなく認められる。・・・
 一般的には治安が安定し、為政者にとっても農民にとっても生産性向上への関心が高まる近世期以降に形成または拡大したと考えられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E5%B1%85%E6%9D%91
 と、こういうわけなのですから、日本では、昔から、世界の他の地域に比べて、異常なまでに相対的に平和で治安も良かったために、基本的に散村だけしか存在していなかったところ、その日本で、12世紀に第一次縄文モード(平安時代)から第一次弥生モード(鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代)に転換し、とりわけ、14世紀に戦国時代に入って世の中の乱れが頂点に達した結果、全国的に集村化せざるをえなかった、と理解すべきではないでしょうか。
 そして、私は、「自律的・自治的性格」と集村とは無関係であって、日本では、その歴史を通じて、散村であれ、集村であれ、はたまた町であれ、一貫して「自律的・自治的性格<が>強」かったのではないか、と想像しています。
 (間違っているなら、典拠を踏まえてご指摘ください。)
(続く)