太田述正コラム#6823(2014.3.19)
<網野史観と第一次弥生モード(その4)>(2014.7.4公開)
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<脚注:使われない個人小切手>
 日本では個人小切手がついに普及しないまま姿を消そうとしている。
 しかし、日本語ウィキペディアがあげる、その理由(下掲)には説得力がない。
 「日本においては事業者、法人、消費者とも先述の口座を開設し、小切手を振り出すことができるが、事業者、法人による振出も徐々に減りつつあり、また個人消費者の振出は前述の状況から21世紀初頭にはほぼ途絶状態にある。
 その理由は、送金や取引決済においては、小切手制度よりも簡便に利用出来る内国為替(ゆうちょ銀行の当座預金、各銀行等の振込)が発達しており、通常はそちらを利用したほうが手軽だからである。また家計(小売)においては従来からの現金払いや商品券、プリペイドカード、クレジットカードなどが支払(領収)手段として支持され、企業においては決済の電子化(ファームバンキングや振込)の進展により、手形と違い単なる支払証券である小切手は役割を取って替わられている。そのため、小切手の利用は内国為替や手形に比べて多くない。日本国民の中には、小切手を一度も見たことがないという人間も少なくない。
 一方、特に<米、英、伊>などの<西側>諸国では、消費者の小売店などにおける支払手段としても広く活用されているほか、韓国では、最高額券種である5万ウォン紙幣の価値が実際の取引規模に比して小額(日本円換算で4000円程度)であることから、10万ウォンをはじめとする高額を表示した預金小切手(手票)が紙幣に準じて広く流通し、自動取引装置 (ATM) でも預け入れ、振り出しなどが取り扱われている。ただし、デビットカードの普及により、消費者による小切手の利用が急速に減っている国が多い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%88%87%E6%89%8B
 私見では、真の理由が、(韓国を含む他国と違って、)日本に治安上の懸念が基本的にないところにあるのは明白。
 つまり、日本においては、現金を持ち歩いても安全なので、それを使う個人にも、受け取る業者にも、更には、決済をする銀行にも多大な手間とコストの負担を強いるところの、個人小切手が普及しなかった、ということだろう。
 この単純明快な理由を挙げているのは、ネット上で私が調べた限りでは、下掲のQ&Aくらいだ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/748630.html
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 「1226年・・・に鎌倉幕府が、その4年後には朝廷が旧来の政策を改めて公式に宋銭の使用を認めた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%8A%AD
わけですが、その時点までの歴史を少し振り返ってみましょう。
 1156年の保元の乱で、京都が戦乱の舞台になりました
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
が、これは空前の出来事でした。
 それ以後、京都が戦乱の舞台になったケースとしては、1160年の平治の乱、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1
1180~85年の治承・寿永の乱に係る、義仲軍の上洛に伴うところの、略奪狼藉(1183年)及び法住寺合戦(1184年1月)並びに(京都郊外での)宇治川の戦い(同1月)・粟津(大津)の戦い(同3月)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1#.E7.BE.A9.E4.BB.B2.E3.81.AE.E4.B8.8A.E6.B4.9B
があり、鎌倉幕府成立以降も、1201年の建仁の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
や1221年の承久の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
が起こっています。
 戦乱が起きて、掛け売り先が略奪されたり放火で焼け出されたりすれば、代金の回収は困難になります。
 そこで、戦火が及びそうになったら、その前に代金を回収しようとするのは人情というものです。
 しかし、戦火がいつ及ぶか、を的確に予想することはできません。
 そうなると、リスク回避のために代金回収の頻度を上げざるをえなくなります。
 つまり、掛け売りが、その限りにおいて現金決済的になっていきます。
 そうなると、米や絹だけで対応するのは困難になり、代用貨幣ならぬ、本当の貨幣への需要が出てくるはずです。
 ご承知のように、京都は平安時代の日本の首都であり、次の鎌倉時代には、日本に京都のほかにもう一つ鎌倉という首都ができたわけですが、さしずめ、前者は経済と文化の首都、後者は政治の首都、といったところでしょう。
 そして、室町時代には、京都が単一の首都に戻ります。
 私の仮説は、第一次縄文モードと第一次弥生モードの間、一貫して(少なくとも経済的には)首都であり続けた京都の治安状況の悪化が、掛け売りの決済の頻繁化を通じて貨幣の流通をもたらした、というものです。
 そのきっかけをつくったのは、ご案内のように、第一次縄文モード末期において、宋銭の流通を計った、清盛率いる平氏政権でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3 前掲
 では、どうして、この平氏政権が宋銭の流通を公式に認めるに至らず、また、第一次弥生モード下の鎌倉、室町両政権も、宋銭の流通を公式に認めつつも自ら貨幣を鋳造はしなかったのでしょうか。
 それは、京都でさえ、現金決済にはならなかったと思われるところ、いわんや、全国的には治安の悪化は、京都に比べて、地域的かつ時間的により限定的であり続けたために、日本全国における貨幣の需要はそれほど大きくはならなかったからである、と想像されるのです。
 以上のような、貨幣に係る私の仮説が、実証的研究によって裏付けられることを期待しています。
(続く)