太田述正コラム#6837(2014.3.26)
<網野史観と第一次弥生モード(その11)>(2014.7.11公開)
4 つけたし
 (1)序
 つけたし、ということで、「網野の影響を受けつつ、網野のエピゴーネンの域を脱した日本史学者達」(前述)二人の所説を紹介し、私のコメントを付したいと思います。
 ただし、網野説を念頭に置きつつ、この二人の所説を織り交ぜながら、論述されている、執筆者不詳のネット上のコラム・・各所でURLを添付・・から、この二人の所説とおぼしき箇所を抽出し、それに私のコメントを適宜付したことをお断りしておきます。
 (そもそも、歴史に係るコラムなら、なおさら、引用箇所をいちいち断り、しかもその典拠もその都度付記すべきなのに、そうしていないところにも、日本の歴史愛好家、ひいては日本の歴史学者、ひいては日本の人文社会科学者の通弊が現われています。)
 (2)寺社勢力
 伊藤正敏(1955年~)(注13)は、その『寺社勢力の中世』の中で、概略、次のようなことを主張しているようです。
 (注13)「東京大学文学部国史学科卒業。同大学院人文科学研究科修士・・・。一乗谷朝倉氏遺跡調査研究所文化財調査員、文化庁記念物課技官、長岡造形大学助教授、教授を務め、その後研究・執筆活動に専念。・・・研究対象は日本村落史と中世寺社勢力論。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%AD%A3%E6%95%8F
 「貴族階級の豪奢と横暴は、農村発の都市難民を生み出し、その受け皿となる・・・延暦寺<を中心とする>・・・寺社勢力を台頭させた。もともと、貴族階級の宮廷サロン需要に応える文化と高級品の海外窓口=貿易商でもあった寺社勢力は、都市難民を受け入れ、古代市場から中世市場へと市場拡大の橋渡し役を担ったのだ。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=227901
 寺社勢力については以下のように伊藤の説が解説されています。
 「寺社勢力・・・は・・・、日本中世において、武家政権・朝廷とともに権力を三分した、大寺院・神社(当時は神仏習合のために一体)による軍事・行政・経済・文化パワーである。武家政権や朝廷のように権力中枢があったわけではな<い。>・・・
 平安時代末期から、延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備え、また神輿を担いで強訴を行い、自身の要求を主張するようになった。
 また、衆徒・神人とよばれる俗人を多数配下において大人口を誇り、経済・学問・工芸活動などが盛んだった寺社周辺は、近年・・・「境内都市」と呼ばれる<ようになった、>一大メガロポリスであった。
 延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。強大な寺社勢力である延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。
 また、大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ば<なかった。>・・・
 戦国時代末期において、織田信長、豊臣秀吉などは寺社勢力と激しく敵対し、苛烈な戦いを繰り広げた。・・・
 秀吉の刀狩令は、百姓等のみならず寺社勢力の武器没収も意味しており、この結果として約五百年間続いた寺社勢力は日本の権力構造から消えることとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E5%8B%A2%E5%8A%9B
 また、境内都市については、以下のように伊藤の説が解説されています。
 「「境内都市」は、・・・伊藤正敏が指摘して成立しその後支持者が増えている概念<。>・・・この概念が提示される前、寺社を起源とする集落は「門前町(参詣者などを対象とする商業的活動を行う都市)」と思われて<いたが、>・・・概念は、そういう一般的な印象を見直し、寺社を起源とする大集落を政治的・文化的・産業的・軍事的な複合的機能を持つ都市として認識しなおそうという意図をもって提案されたものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%83%E5%86%85%E9%83%BD%E5%B8%82
⇒延暦寺の力については、天台宗の信徒達が宗教一揆(注14)化したことに伴うものと捉え、延暦寺の学僧の一人であった親鸞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA
が興した浄土真宗の信徒達が宗教一揆化したことによる一向一揆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
の力と類似のものであって、その前駆形態である、と見ればよい、というのが私の見解です。
 (注14)「室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%86
 興福寺については、下掲のように、事実上、守護大名化していたと言ってよく、別段、特別視する必要はなさそうです。
 「鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
 また、根来寺は、根来衆として、同じ紀州の、ただし、宗教色のない雑賀衆(一揆集団)に類似した、独特な戦国大名と化していた、と言ってよいでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9D%A5%E5%AF%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%B3%80%E8%A1%86
 それ以外の「寺社勢力」については省略します。
 結局、「寺社勢力」という新概念を導入する必要はないのであって、「境内都市」についても、従来通り、「城下町」並びの「門前町」と呼べば足りる、というのが私の結論です。
 そうだとすれば、「寺社勢力」は「都市難民を受け入れ、古代市場から中世市場へと市場拡大の橋渡し役を担った」などという、「寺社勢力」なるものに着目した叙述は意味をなしません。
 この点について、もう少し、具体的に説明しましょう。
 第一次弥生モードは、治安が乱れた自力救済の時代(注15)なのですから、地域や一揆ごとに、軍事力を保持し、その軍事力を維持強化するために殖産興業を図らなければなりませんでした。(注16)
 (注15)例えば、「肥料<が>多用<されるようになったが、>・・・肥料の主体は草肥であり、草刈り場が重要となって争議が多発する。」 
http://suido-ishizue.jp/daichi/part1/03/04.html
 なお、この資料には、「集村化の背景」の一つとして、「南北朝以後、京を中心とした戦乱に対して自衛の必要が出てきた」ことが挙げられている。
 (注16)「中世<には、>・・・畑作<物の中から>・・・各地で特産物化してくるものもあり、江戸期に全面開花する商品作物栽培の素地が形成されてくる。 」(上掲)
 ところが、延暦寺、興福寺、根来寺が、それぞれ、他の一揆、守護大名、戦国大名よりも殖産興業に顕著に成功した、いや成功した時期があった、といった話は聞いたことがありません。
 だとすれば、これらの「寺社勢力」が市場の形態の大転換を担ったなどということもまた、考えにくいというべきでしょう。
 そもそも、第一次弥生モードの末期の戦国時代の話ではありますが、「商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され・・・ていた<からだ>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
とあるように、当時、大きな市場は港町に成立したところ、延暦寺、興福寺、根来寺は、いずれも内陸に位置しているのですから・・。
 結局、伊藤は、網野のように、有害な補助線こそ提示しなかったものの、彼が提示した補助線は、有益であるとまでは言えそうもない、といったところでしょうか。
 
(続く)