太田述正コラム#6847(2014.3.31)
<網野史観と第一次弥生モード(その16)>(2014.7.16公開)
 さて、この仮説を説明するためには、貨幣について、とりわけ、日本における宋銭について、基本的事実を押えておく必要があります。
 貨幣は、一般に、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能 (function)を持ったもの、と定義されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3#.E8.B2.A8.E5.B9.A3.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2
http://en.wikipedia.org/wiki/Money
 しかし、この日本語ウィキペディアにおいては、説明文の中で、上掲の3つの機能に加えて、唐突に「支払」という4番目の機能を登場させ、この4つの機能について、以下のように説明しています。
 (英語ウィキペディアでも、repayment of debts が通貨の働きの1つとして挙げられていますが、3つの基本機能に並ぶものとしては登場しません。)
 「価値の尺度:貨幣は、計量可能なモノ(財)の市場(しじょう)における交換価値を客観的に表す尺度となる。これによって異なるモノの価値を、 同一の貨幣において比較ないし計算(計算単位)することができる。例えば、本20冊と牛1頭といった比較が客観的に可能になり価格を計算できる。
  支払:計量可能なモノを渡し、責務を決済する。初期社会では特に示談金、損害賠償、租税などの制度と関連して生じた。
  価値の保蔵:計量可能なモノを貨幣に交換することで、モノの価値を保蔵することができる。例えば、モノとしての大根1本は腐敗すれば消滅するが、貨幣に換えておけば将来大根1本が入手可能となる。あるいは「大根1本の価値」を保蔵できる。ただし、自由な取引の元では通貨価値ないし物価 変動により貨幣で入手できるモノの量は増減することがあり、貨幣による価値の保蔵機能は完全ではない。
  交換の媒介:貨幣を介する社会では、計量可能なモノと貨幣を相互に交換することで、共通に認められた価値である貨幣を介することで取引をス ムーズに行える。これに対し、貨幣を介さない等価交換においては、取引が成立する条件として、相手が自分の欲しいモノを持っていることと同時に、 自分が相手の欲しいモノを持っていることが必要となる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3#.E8.B2.A8.E5.B9.A3.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2
 その上で、日本における宋銭についての、ウィキペディアの下掲の記述・・今
回も長いですが・・をお読みください。
 「日本において宋銭の流通が本格化したのは、12世紀後半とされている。当時は末法思想の流行で仏具の材料として銅の需要が高まり宋銭(1文 銭)を銅の材料として輸入していた。時の権力者の平清盛はこれに目つけ、日宋貿易を振興して宋から大量の宋銭を輸入して国内で流通させ平氏政権の 政権基盤のための財政的な裏付けとした。ところが、当時の朝廷の財政は絹を基準として賦課・支出を行う仕組みとなっていた。これは皇朝十二銭の廃 絶後、それまでは価格統制の法令として機能してきた沽価法による価格換算に基づいて算出された代用貨幣である絹の量を元にして、一国平均役や諸国 所課、成功などを課し、また沽価法に基づいた絹と他の物資の換算に基づいて支出の見通しを作成していた(勿論、実際の賦課・収入は現実の価格の動向なども加味されて決定される)。そのため、宋銭の流通によって絹の貨幣としての価値(購買力)が低下すると、絹の沽価を基準として見通しを作成し、運営していた朝廷財政に深刻な影響を与える可能性があった。また、宋銭の資金力が平家を台頭させたと考える「反平家」の人々や宋銭の流通によって経済的に不利益を受けるようになった荘園領主、地方武士も、宋銭とこれを流通させようとする平家に強い不満を持つようになった。
 宋銭を流通させようとする平家と、これに反対する後白河法皇の確執が深まった治承3年(1179年)、法皇の意を受けた松殿基房や九条兼実が 「宋銭は(日本の)朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭流通を禁ずるように主張したものの、逆に清盛や高倉天 皇、土御門通親らがむしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると唱えて対立し、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉する。平家滅亡後の文治3年 (1187年)、三河守源範頼(源頼朝の弟であり、実態は頼朝の提案に等しい)の意見という形で摂政となった九条兼実が流通停止を命令される。だが、この頃には朝廷内部にも絹から宋銭に財政運営の要を切り替えるべきだという意見があり、建久3年(1192年)には宋銭の沽価を定めた「銭直 法」が制定されたものの反対意見も根強く、建久4年(1193年)には伊勢神宮・宇佐神宮の遷宮工事の際に必要となる役夫工米などの見通しを確実 なものにするために改めて「宋銭停止令」が出された。
 だが、鎌倉時代に入ってその流通はますます加速して、市場における絹の価格低下は止まらなかった。また、朝廷や幕府の内部においても実際の賦課や成功の納付や物資の調達の分野において、現実において絹よりも利便性の高い宋銭で行われるようになっていった。こうして、宋銭禁止の最大の理由 であった絹による財政運営の構造そのものが過去のものとなっていった。嘉禄2年(1226年)に鎌倉幕府が、その4年後には朝廷が旧来の政策を改 めて公式に宋銭の使用を認めた。・・・13世紀に入ると、絹・布が持っていた貨幣価値を銭貨が駆逐し、次第に年貢も銭貨で納められるようになった (代銭納)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%8A%AD
 このウィキペディアは、典拠がきっちりつけられており、信頼度は高いと思いますが、この中に、「交換の媒介」という機能に係る記述が全く出てこないことにお気付きでしょうか。
 これは、宋銭は、絹(絹布)を代替したところ、第一次縄文モードにおける絹と同じく、宋銭が「交換の媒介」として広く使われることがなかったからでしょう。
 (これまで、網野らは絹は麻布や米と共に平安時代の通貨としていたところ、麻布と米に対する言及がこのウィキペディアにないのは不思議ですが、この点には立ち入りません。)
 絹ないし宋銭は、もっぱら、税の「支払」に関わるものとして使われたと考えられるのです。
 その根拠として私が想像するのは次のようなものです。
 税は、律令制下まで遡れば、租庸調(注26)であり、その中には様々な役務・物品がありました。
 (注26)租庸調も名前だけだった可能性も排除できないが、その中身は、一応、下掲の通り。
 祖:田1段につき2束2把とされ<たが、>・・・律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするように なった。・・・
 庸:正丁(21~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代 納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したもの・・・
 調:正丁・次丁・中男(17~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣(調 銭)による納 入(調雑物)も認められていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8%E8%AA%BF
 例えば、庸については、(本来課されるはずだったところの)労役=(実際に払われたところの)布=(同左)綿=(同左)米=(同左)塩・・・でなければならないところ、そのためには、これらの様々なものの価値を相互に比較するための「価値の尺度」が不可欠であり、それが、第一次縄文モー ドではもっぱら絹、第一次弥生モードではもっぱら宋銭であった、と考えられるわけです。
 絹について言えば、それが一旦「価値の尺度」となると、(絹そのものが、庸や調として税の「支払」に使われる場合もあったわけですが、)基本的 に、絹は、租庸調に共通する価値の(計算)単位の形で観念的に税の「支払」に使われることとなった、と考えられるのです。
 また、「絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級・・繊維製品」(ウィキペディア上掲)であったこと、かつ、これらの人々は庸や調として国に納められた絹を入手する機会も多々あったと思われることから、上流階級は、絹を「価値の保蔵」のためにも使ったケースがあると考えられるものの、絹とは無縁であった中下流階級にとっては、絹を「価値の保蔵」のために使うことな どおよそ考えられなかったのではないか、と思われます。
 従って、上流階級相互間を除き、絹が「交換の媒介」として用いられることも また、ありえなかった、と思われるのです。
 この絹が、どうして、税の「支払」に関わるものとして、宋銭によって取って代わられることにあいなったのでしょうか。
(続く)