太田述正コラム#7021(2014.6.26)
<キリスト教と資本主義の両立可能性(その1)>(2014.10.11公開)
1 始めに
 本日、NYタイムスが、表記について小特集を組んでいた
http://www.nytimes.com/roomfordebate/2014/06/25/has-capitalism-become-incompatible-with-christianity
ので、寄稿者それぞれの主張のさわりをご紹介するとともに、私のコメントを付すことにしました。
 先回りして記しておきますが、ご承知のように、私は、キリスト教は利他主義の宗教であり、また、資本主義と個人主義はコインの表裏である、と考えているところ、表記は、キリスト教/利他主義/全体主義/社会主義と無神論/利己主義/個人主義/資本主義の両立可能性、と言い換えることができるのではないでしょうか。
 それじゃあ太田の結論も見えているですって?
 とにかく、始めましょう。
2 キリスト教徒資本主義の両立可能性
 (1)問題提起
 NYタイムス編集部の問題提起は、イエスが、エルサレムの神殿構内の両替商達を、「盗賊達の巣窟」と呼んで叩き出し、現法王のフランシスコ(Francis)も、経済的正義を提供するというふれこみの「市場の見えない諸力や見えない手にもはや信頼を置くことはできない」と警告したけれど、他の人々は、キリスト教徒資本主義は切っても切り離せない関係にある(inextricable)と言っているところ、一体、現代の資本主義はキリスト教の諸価値と両立しうるのだろうか、というものです。
 
 (2)ゲアリー・ドリエン(Gary Dorrien)
 「<欧州の>初期の諸経済は、社会的諸義務に立脚して構築されていた。
 例えば、封建諸経済においては、カトリック神学者達が配分的正義(distributive justice)<(注1)>と公共善(common good)<(注2)>の諸理論を発展させた。・・・
 (注1)アリストテレスに遡る。彼は、正義には分配的正義と矯正的正義があるとした。「配分的正義の特徴は、各人が何らかの事物に対する自己の相応しさに応じてそれを比例的に持つことを目標とする点にある」のに対し、「匡正的正義の特徴は、各人が不正に失ったり受け取ったりしたものを、算術的計算によって再受領ないし返還しなければならないという点にある」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9
 (注2)「アリストテレスが・・・主張した国家(ポリス・・・)の定義、すなわち「善なる目標を共有する団体」を・・・キケロ<によって>・・・ラテン語に・・・res publica (公共なるもの)と<して翻訳されたもの。英語では>共通善(・・・common good)<と翻訳され、>・・・「共和国の同義語として扱われてきたが、」<その後、共和国だけを意味する言葉として、>「コモンウェルス(・・・commonwealth)」<ができた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B9
⇒カトリシズムが、アリストテレスを援用してスコラ哲学を構築した、というだけのことであって、実際に、欧州の封建社会の営みに、こういった概念が影響を及ぼしたわけではない、と言ってよさそうです。(太田)
 私の教える、社会倫理学(social ethics)は、19世紀末に資本主義イデオロギーに対する抗議(protest)として樹立された。
 米国の社会的福音神学者(social gospel theologian)のウォルター・ラウシェンブッシュ(Walter Rauschenbusch)<(注3)>は、以下のように感動的に述べている。
 (注3)1861~1918年。NY州ロチェスターに生まれ、ロチェスター神学校を経て、「経済学と神学をベルリン大学で学び、労使関係をイギリスで学び、同地でフェビアン協会を知る。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Rauschenbusch
 その後、「ロチェスター神学校の教会史の教授<を務める>。・・・ドイツからの移民や労働者の悲惨な生活を見て、・・・資本主義社会の経済的自由競争は利己主義的で、教会と社会の崩壊を招く危険を訴えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
 「資本主義は、我々全員の中にある利己的諸本能を過度に発達させ、より大きな諸目的への献身の能力を縮ませ萎えさせてしまった」と。
⇒イギリスに元からある反産業主義に啓発された、というだけのことでしょう。(太田)
 法王レオ13世(Leo XIII)<(注4)>は、雇用者達の冷たさ(callousness)と無制約の競争の貪欲・・それには、労働者達を孤立し無防衛状態に放置することへの駆動力を含む・・によって定義される体制であると描写した。・・・
 (注4)1819~1903年。法王:1878~1903年。イタリアの貴族の家の出身。「19世紀のカトリック教会は近代思想と科学思想のすべてを否定することで自らのアイデンティティーを保持しようとしてきた。その頂点が1864年の『誤謬表』(シラブス)であり、近代社会とカトリック教会は相容れないという印象を世界に与えていた。レオ13世はこの状況を憂慮し、トマス・アクィナスの「理性と信仰の調和」という思想に解決を見出し・・・、信仰と科学思想が共存しうることを訴えた・・・。・・・
 社会問題を扱った初の回勅[(papal encyclical)]『レールム・ノヴァールム[(Rerum Novarum)]』を発表したことで有名。・・・
 この回勅に於いてレオ13世は労働者の権利を擁護し、搾取とゆきすぎた資本主義に警告を行いながらも、一方で台頭しつつあったマルクス主義・・・を批判している。・・・
 <なお、彼は、>フランス革命以来、共和制フランスをはじめて認めた教皇となった。しかし、・・・<イタリア・ナショナリズムを否定し(太田)、>イタリア王国を認めず、信徒に国政選挙の投票権を放棄するよう求め・・・た。・・・
 <また、>彼の時代、カトリック教会に再び世界宣教の情熱が強ま<り、>各種修道会が発足し、その規模を拡大し、宣教師が世界に派遣された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA13%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Common_good 前掲([]内)
⇒レオ13世については、何度も取り上げてきており、彼が、欧州文明のプロト欧州文明への回帰とアングロサクソン文明の排斥を唱えた、と私は総括しているところ、過去コラム(コラム#1165、3766、5228、5406、6725)を、適宜、読み返していただければ、と思います。(太田)
 <ところが、米国の>新古典派<経済学>理論の創建者達は、実際にはブルジョワ階級の利益に奉仕すべく注意深く設計されているところの、自然であるとされる「自由放任」の理念を作り上げた(fashioned)。・・・
 <そして、今や、>信用供与(credit)の諸条件、諸額、そして方向を統制する者達が、我々の残りが生きる社会の類を決定する支配的役割を演ずる<に至っている。>
 我々の社会でこの役割を演じている人物達は、自分達自身がもっとたくさん金儲けをすること以外にも関心がある、というふりをすることさえしない。
 それ以外のことを何か言うようでは、敗者(losers)達ないしカモ(sucker)達になってしまうというわけだ。
 この事実は、社会倫理学者達のこれからの世代に<真正面から>受け止められている。
 彼らの多くは、ラウシェンブッシュが全くもって急進的ではなかった<からだ>と思っている。
 彼らは、自分達の学問分野が、1950年代以来、資本主義について語るのを止めてしまったのはどうしてかを不思議に思っているのだ。」
(続く)