太田述正コラム#7031(2014.7.1)
<欧州文明の成立(続)(その4)>(2014.10.16公開)
宗教改革(の徹底)・・清教徒による革命・・でなかったことは、内戦の期間を通じて、英国教会が廃止されるどころか、一切の改変が加えられなかったことから明らかでしょう。
 (なかったことの証明はむつかしいわけですが、英国教会の歴史の英語ウィキペディアを見ても、同教会の歴史の中で、内戦期には何の言及もなされていない
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglicanism 
ことがその傍証です。)
 日本でこの内戦が清教徒革命と呼ばれることになった経緯は詳らかにしませんが、この内戦の勝利者側の指導者のオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell。1599~1658年)が清教徒(puritan)であったことがその一つの理由であることは容易に想像が付きます。
 しかし、彼が自分の宗教的信条を広めようとしたり、その信条でもって英国教会を改革しようとした形跡は皆無です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Oliver_Cromwell
 以上から、この内戦が、宗教的内戦(宗教戦争)でなかったこともまた、明らかでしょう。
 但し、彼、というか、内戦の勝利者側が、カトリック教徒に厳しくあたったこと(ウィキペディア上掲)は事実であるところ、これは、英国教会樹立以降の歴代イギリス政府の方針を踏襲しただけであり、アイルランドの住民の大部分はカトリック教徒であったことから、その限りにおいて、この内戦が、イギリス対アイルランド、すなわち、非カトリック教会に対するカトリック教会の戦い、という様相を帯びたことは否定できません。
 (なお、アイルランドにおいてだけですが、内戦の勝利者側は、英国教会に代えて清教(プロテスタンティズム)に国教的地位(Protestant Ascendancy)を付与しています。
 しかし、それは、あくまでも、イギリスによるその一「植民地」の叛乱の武力鎮圧にあたっての変則的措置であった、と見るべきでしょう。)
 そうは言っても、国王殺しが行われたのだから、この内戦は、少なくとも革命ではあったのではないか、と、なお、納得しないむきもあるかもしれません。
 ここで、思い出してください。
 イギリスが、大昔から議会主権の国であったことを。
 この内戦が革命であるためには、議会主権が何か別の主権で置き換えられた時期がなければなりません。
 ところがです。
 この内戦は、国王のチャールズ2世の政策に賛成する議会少数派と反対する多数派の間で始まり、この多数派・・下院議員たるクロムウェルはその有力メンバー・・が、チャールズを裁判にかけることに反対する派と賛成する派・・やはりクロムウェルが有力メンバー・・に分裂したために、後者が残留議会(Rump Parliament)となり、この残留議会が、1648年にチャールズを処刑し、翌1649年にイギリス共和国(English Commonwealth)を成立させるとともに、国家評議会(Council of State)という行政執行機関を設け、下院議員たるクロムウェルを評議員の一人として選出する、という経過を辿っています。
 ここまでは、緊急事態の下、変則的な形であれ、議会主権が貫かれていることがお分かりだと思います。
 この国家評議会は、互選で最初の(暫定)議長にクロムウェルを選出しています。(彼はすぐにそのポストを正式の議長に譲っています。)
 このことから、彼がイギリスの実質的な最高指導者であることを、残留議会は認めていた、と言ってよいでしょう。
 議会主権が一見崩れるのは、この内戦が終結した1651年の後の、1653年4月に、クロムウェルが事実上の軍事クーデタを起こし、議論ばかりで仕事をしてくれない残留議会を廃止して護国政府(Protectorate)を樹立し、護国卿に就任した時点から、選挙に基づく護国議会(Protectorate Parliament)・・この議会がクロムウェルの護国卿就任を追認したと言ってよい・・が開催された1654年9月までの1年半弱の間だけです。
 繰り返しますが、この1年半弱にわたる議会不存在期間は、チャールズを処刑し、イギリス共和国が成立し、内戦が終結してからの話であることに注意してください。
 クロムウェルの死に伴う、彼の息子のリチャード・クロムウェルの第二代護国卿については、護国議会が正式に認めています。
 興味深いことに、1659年4月には護国議会が解散・廃止され、残留議会が復活し、更に翌1660年2月に長期議会が復活した上で、4月には、再び選挙に基づく議会が発足し、チャールズ2世が1世処刑の時点からイギリス国王である旨を宣言し、イギリスで王政復古がなっています。
http://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War
http://en.wikipedia.org/wiki/Commonwealth_of_England
http://en.wikipedia.org/wiki/Barebone%27s_Parliament
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Protectorate_Parliament
http://en.wikipedia.org/wiki/Convention_Parliament_%28England%29#Convention_Parliament_of_1660
http://en.wikipedia.org/wiki/Oliver_Cromwell
http://en.wikipedia.org/wiki/English_Council_of_State
 以上から、イギリス内戦期間中を通じて、イギリスの議会主権が実質的に貫徹されていたことについて、ご納得いただけたことと思います。
 その上で、英語ウィキペディアの、この内戦についての総括を、反芻してみてください。 
 「イギリス内戦(1642~51年)は、イギリス王国における、主として、政府のあり方(manner)を巡っての、議会派(円頂党=Roundheads)と王党派(騎士党=Cavaliers)の間の武力紛争及び政治的策謀(machination)である。
 最初(1642~46年)の戦争と二番目(1648~49年)の戦争は、国王チャールズ1世の支持者達と長期議会の支持者達との間の争いであり、三番目(1649~51年)の戦争は、国王チャールズ2世の支持者達と残留議会支持者達との間の闘いだった。
 この戦争は、1651年9月3日のウースター(Worcester)での議会派の勝利で終わった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War 前掲
(続く)