太田述正コラム#7039(2014.7.5)
<欧州文明の成立(続)(その8)>(2014.10.20公開)
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<脚注:2度のイギリス内戦の原因>
これまで述べてきた史観に立つと、2度にわたる、イギリス内戦がどうして起こったのかが、よりよく見えてくる。
 引き続き書く予定の米国「文明」起源論の一部を先取りすることになるが、ここで記しておこう。
1 第一次イギリス内戦(17世紀)
 アングロサクソン文明対プロト欧州文明戦争にイギリスが事実上の勝利を収め、脅威がなくなったように見えたことから、親欧州派(王党派/スコットランド/アイルランド)と反欧州派(議会派)との間で起こった内戦。
 これは、説明を要しないだろう。
2 第二次イギリス内戦(米独立戦争)(18世紀)
 第一回アングロサクソン文明対欧州文明戦争にイギリスが勝利を収め、北アメリカにおいては脅威がなくなったことから、英領北米植民地(の大部分)とイギリス本国との間で起こった内戦。
 どうしてそう言えるのか?
 米国「文明」起源論で詳しく叙述するつもりだが、英領北米植民地人は、イギリス本国人と違って、裸の・・つまり人間主義抜きの・・個人主義者が多かった、ということを念頭に置いて、以下を読んで欲しい。
 (やはり米国「文明」起源論に譲るが、これは、欧州文明とのキメラ的な英領北米植民地(の大部分)と純アングロサクソン文明のイギリス本国との間の内戦だった。)
 「オーストリア継承戦争の最中の1746年に、イギリスがカナダをフランスから奪取した時、ベッドフォード公爵(Duke of Bedford)<(注7)>は、これを返還しないならば、国境線<の向こう側>に強力な敵がいなくなり、「これらの諸州(provinces)において、母国に対する独立…」<志向>が惹起されることを恐れた。
 (注7)第一海軍卿時代のジョン・ラッセル(John Russell。1710~71年)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Russell,_4th_Duke_of_Bedford
のことと思われる。
 そして、その2年後に戦争が終わると、<実際、カナダはフランスに>返還された。」
http://hnn.us/article/156129
 ところが、「ウィリアム・ピット(William Pitt)首相<は、>・・・7年戦争後の1763年の<パリ>平和条約で、<その戦争中に再びフランスから奪取していた>カナダを・・・<今度は>返還しなかったことが、<米独立戦争の>主要原因となった可能性が高い(would have taken center stage)。」
http://www.common-place.org/vol-14/no-03/slaughter/#.U7dfPJXlqUk
 また、このパリ条約で、イギリスは、フランスから、アパラチア山脈以西、ミシシッピ川以東の地も獲得したが、戦争の際に、インディアン部族の多くがフランスに与したこともあり、勅令(Royal Proclamation of 1763)で英領北米植民地人の同地への入植や、同地の土地売買を禁じた。
 植民地人の抵抗もあって、この勅令はやがて骨抜きにされたが、事前の調整もなくこの勅令が出されたことは植民地人を怒らせた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Colonies
http://hnn.us/article/156129 前掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Proclamation_of_1763 (←更に詳細が出ている。)
 更に、7年戦争で大きな国家債務を抱えるに至っていたイギリス本国は、せめて英領北米植民地への英軍駐留経費の一部くらいは植民地側に負担させようと考え、1765年に英領北米植民地に初めて直接税を課そうとした(印紙法=Stamp Act)が、植民地人側は、代表なくして課税なしとこれに反対したので、それならと本国側が植民地での英本国議会の議員選出を認める意向を示しても、理由らしき理由をあげずにこれにも反対した。
 (そもそも、当時の英本国議会の議員の選挙権を有していたのは本国でも一部の人にとどまっていた。)
 止むなく今度は、1767年に、茶等に新規関税を課そうとした(タウンゼント諸法=Townshend Acts)が、今度は、(これまでのような)貿易統制目的ではなく収入目的の関税には反対だときた。
 結局、1773年のボストン茶会(Boston Tea Party)等を経て、1775年に米独立革命戦争が始まる。
http://en.wikipedia.org/wiki/American_Revolutionary_War
 以上に加えて、植民地人の間で蟠っていたのは、1772年に英本国で奴隷制が禁止されたことだ。
 これは、植民地には適用されなかったが、黒人奴隷の間で英本国に逃亡しようとしたり、ジョージ3世は自分達の味方だという気持ちが高まったりしたことへの懸念が増大したのだ。
 (実際、米独立革命の際、黒人奴隷の相当数が英本国側に立って戦っている。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_the_United_States
 以上のように、へ理屈にもなっていないタテマエの下、裸の個人主義的な、つまりは、利己的なホンネを抱いて、英領北米植民地人達は、米独立革命を始め、人口比で、現在に至る、米国最大の死者を独立戦争で生ぜしめてまでして独立を勝ち取ったのだ。
http://www.common-place.org/vol-14/no-03/slaughter/#.U7dfPJXlqUk 前掲
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(続く)