太田述正コラム#7138(2014.8.24)
<フィリップ2世の帝国(その4)>(2014.12.9公開)
 (4)極東
 「その治世の終わり頃、フィリップは、彼のフィリピン総督とイエズス会の僧侶達からさえ、6,000人のフィリピン人と更に6,000人の日本の傭兵達で補填されたところの、10,000人のスペイン人の部隊でもって、支那に侵攻するよう促された。
 スペインの無敵艦隊が1588年に沈められていなければ、これに近い線で決行されたかもしれないが、とにかく、フィリップの生来の慎重さがこれを押しとどめた。」(A)
 「全ての中で最も途方もないのは、1583年にフィリピンの総督によってなされた、支那を征服すべきであるとする提案だった。
 彼は、甘いことに、支那人は、「戦争好きの人々」ではない、と信じていた。
 わずか、8,000人と12隻のガレオン船(galleon)<(注19)>群でもって、容易に、「中華王国(Middle Kingdom)」全体を従えることができる、と。
 (注19)「16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。・・・小さめの船首楼と大きい1~2層の船尾楼を持ち、4~5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。・・・幅と全長の比が1:4と長く、荷が多く積める、吃水が浅いためより速度が出るといったメリットがあった反面、安定性に欠け転覆もしやすくなるデメリットもあった。速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船は西欧各国でこぞって軍艦・大型商船として運用され<た。>・・・1613年、サン・フアン・バウティスタ号(500トン)が伊達政宗の命令でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノによって仙台藩石巻で建造された。サン・フアン・バウティスタ号は日本で最初に建造されたガレオン船であるとされている。ルイス・ソテロおよび支倉常長以下の使節団が、ローマ教皇のもとに派遣された時に、本船は太平洋を横断してメキシコ, アカプルコへ送りとどけ、同使節団の帰途にもメキシコから日本へ連れ帰った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E8%88%B9
 
 この、「世界のいかなる君主によっても提案されたことのない、最大の事業」によって得られるものは、間違いなく計り知れないものがあった。
 イタリア人たる偉大なイエズス会支那学者のマテオ・リッチ(Matteo Ricci)<(注20)>に代表されるところの、侮蔑的評価にもかかわらず、この企画はフィリップ自身によってさえ、真剣に受け止められた。
 (注20)1552~1610年。「イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。・・・<支那に>1582年に<入り、>・・・宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。 中国に<欧州>の最新技術を伝えると共に、<欧州>に中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81
 ローマのイエズス会学校で法学と神学をまなぶ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Matteo_Ricci
 諸委員会が立ち上げられたが、それらは、この営みの兵站面を議論するためであるとともに、アメリカ大陸における諸征服がその下で行われたところの、疑わしい道徳的かつ法的諸条件を繰り返さないように、これが「正戦」に計上されるであろうことを発見するためのものだった。
 最終的に、この事業は放棄された。
 その功績は、恐らくはフィリップの伝説的な注意深さ(prudence)に帰せしめられることだろう。
 それは、明帝国の大きさと性格、及び、欧州人の支那との諸接触の長い歴史、の双方についての瞠目すべき無知を曝け出した。
 リッチが警告したように、仮に軍がフィリピンから支那本土に到着できたとして、仮に上陸の際に全滅しなかったとして、内部へ若干でも入り込むことに成功したとして、すぐにこの帝国の諸荒野の中で道に迷い、山賊達によって粉砕されるか、単に餓死したことだろう。
 驚いたことに、トーマスは、この軽はずみな企み(scheme)が現実に成功したかもしれない、と信じているように見える。
 それはまた、「満州王朝の下で起こったものと比較して、支那により少ない収奪(deprivation)をもたらしたに違いないし、20世紀のひどい共産党時代の下と比較すれば、間違いなくより少ない収奪をもたらしたに違いない」、と彼は考えている。
 しかし、私としては、まだ残っているスペイン領アメリカの原住民の人々は言うに及ばず、今日のフィリピンの人々が、そう思うかどうかは疑問だ。」(B)
 (5)エピローグ
 「しかし、外交官のディエゴ・サーベドラ・ファハルド(Diego Saavedra Fajardo)<(注21)>が1621年にフィリップ4世<(注22)>に警告したように、諸帝国は野菜のようなものであって、成長を止めた途端、それらは死んでしまうものなのだ。
 (注21)1584~1648年。スペインの著述家・外交官。サラマンカ大学で法学と神学を学ぶ。
http://es.wikipedia.org/wiki/Diego_de_Saavedra_Fajardo
 (注22)1605~65年。「スペイン王、ナポリ王・シチリア王(在位:1621年 – 1665年)、ポルトガル王(在位:1621年 – 1640年)。・・・ベラスケスや・・・スペイン領ネーデルラントの・・・ルーベンスを保護して傑作を数多く描かせ、当代随一の目利きとしてヨーロッパ最高の美術コレクションを築き、後のプラド美術館の礎とした。・・・
 オーストリアとスペインの両ハプスブルク家は広大な領土を守るために血族結婚を繰り返しており、<フィリップ>4世の子どもたちのほとんどが幼くして夭折している。特に次代のカルロス2世は生まれつき病弱(障害があったとも)で、スペイン・ハプスブルク朝が断絶することとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A4%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
 4世についても、彼のルーベンスへの思い入れも踏まえ、「フィリップ」表記にした。
 スペイン王制は更に2世紀の間、よろよろ歩きを続ける。
 しかし、その頃には、偉大なフランスの哲学者のモンテスキュー(Montesquieu)に喝破したように、欧州の領土(dominion)を全て奪われ、その海外諸所有地のアクセサリーでしかなくなってしまったのだ。」(B)
3 終わりに
 本シリーズを書きながら、イギリス、エルサレム、メキシコ、オランダ/ベルギー、スペイン(マドリード/エスコリアル)、フィリピン、支那、への訪問を思い出しつつ、ヴァーチャル感傷旅行に耽っていた私ですが、感想をいくつか記して終えたいと思います。
 第一に、フィリップ2世の帝国は、欧州(プロト欧州文明)が構築した全球的帝国であり、その精神的中心は、ハプスブルク家領ネーデルランドに存した、ということです。
 第二に、その帝国建設の指導者達は、(ピサロやコルテスがそうであったように、恐らくは祖先はゲルマン人であるところの)貴族崩れが多く、かつ、彼らがカトリシズムによって羈束されていたことです。
 これに対して、新大陸でのイギリス人入植者達ははぐれ者の庶民達であり、かつ、その指導者達は当初からリベラル・キリスト教徒的な者が多かったことです。
 この違いが、後者の前者に比しての、原住民や奴隷とのより残酷な関係をもたらした、と考えられるのです。
 第三に、私は、トーマス同様、フィリップによる支那征服は、それを試みておれば、成功した可能性は大いにあった、と思っています。
 というのも、当時の支那の状況は、明の「万暦帝<(1563~1620年。皇帝:1572~1620年)>は・・・政治に関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走った。官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行い、・・・さらに悪化した財政への対策として(あるいは自らの貯蓄を増やすために)、全国に税監と呼ばれる宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取を行った。・・・<そして、>国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で私的な事柄には凄まじい贅沢をした。・・・。『明史』は「明朝は万暦に滅ぶ」と評している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D
という有様だったからです。
 しかも、フィリップは、イエズス会という、いわば諜報機関の諜報網を粗々なものとはいえ、支那内部に展開しており、支那に関して、かなり的確な情勢分析ができていたはずです。
 ですから、フィリップを断念させた最大の要因は、(オランダ独立戦争への対処は織り込み済みとして、)アルマダの壊滅や、その後も続いたイギリスとの戦争、であったのではないか、と私は見ているのです。
 そして、日本の朝鮮出兵(1592、1597年)は、このフィリップの動きを察知した秀吉が、その機先を制すべく支那を「保護」しようと考え、支那内に諜報網を持たないというハンデを克服するために、支那との関係が密であった朝鮮をまず攻略しようとしたものである、と私は踏んでいるのであり、このことも、フィリップに最終的に支那征服を断念させることにつながった、と想像しているのです。
 すなわち、以前にも申し上げたことがありますが、この時点で、日本とイギリスとは、欧州を、それぞれ敵、潜在敵とするところの、事実上の同盟関係・・第一次日英同盟関係・・にあった、という認識なのです。
 
(完)