太田述正コラム#7140(2014.8.25)
<ロシアとナショナリズム(その1)>(2014.12.10公開)
1 始めに
 八幡市でのセミナーの4回目(9月13日)のレジメを作成中であるところ、その中の「ロシア亜文明史」に係るパワーポイントのスライドは、支援グループのご協力の下、既に出来上がっています。
 ところが、その中で、17世紀から20世紀にかけてロシアが欧州文明を部分的に継受したとし、継受したものとして、絶対王政、ナショナリズム、マルクス主義をあげているところ、ロシアにおけるナショナリズムについて、今までコラムでまともに取り上げたことがないことに気付きました。
 実際のセミナーでは、説明を端折るつもりなのですが、何となく手抜きしたようで釈然としないものがあるので、急遽裏付けシリーズを書くことにしました。
2 ロシアとナショナリズム
 (1)ロシア帝国
 絶対王政は、ロシア帝国が、過渡期の欧州文明から継受したわけですが、欧州文明が成立し、フランス・ナショナリズムの猛威にナポレオンのロシア侵攻の形で直面させられたロシアは、今度はナショナリズムの継受を図ることになります。
 ニコライ1世(1796~1855年。皇帝:1825~55年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A41%E4%B8%96
の時ですが、まず、採用したのが正教を軸とするナショナリズムです。
 しかし、同帝国の支配層は欧州の方しか見ていないので最初からロシア領内のイスラム教徒は切り捨てられていたところ、例えば、当時ロシア領であったエストニアとラトヴィアとフィンランドはルター派(プロテスタント)、リトアニアとポーランドはカトリック教徒が大部分である、
http://www.nippon-travel.com/senmon/bult/info.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
という問題点を孕んでいました。
 そこで、19世紀央から末にかけて、今度は、汎スラヴ主義(Pan-Slavism)を軸とするナショナリズムが唱えられるようになるのですが、それも大同小異であり、ロシア領内のアジア系の人々は最初から切り捨てられている上、例えば、エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランド人は非スラヴ人です(3つのウィキペディア上掲)し、ポーランド人はスラヴ人ではあるものの、ポーランドは、「ポーランド・リトアニア共和国の基本理念である多民族共存(多文化主義)の「<かつて存在した>コモンウェルス」の概念と対立することから、いかなる形の汎スラブ主義とも距離を置いた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9
というわけで、欧州部分に限っても、ロシア帝国領内を包摂しきれないという問題点は解消しませんでした。
 (更に細かい話をすれば、グルジア人は正教徒だが非スラヴ人ですし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%BA%BA
アルメニア人は、非スラヴ人である上、キリスト教徒ではあっても、カトリックでもいわゆる正教でもない、宗派に属する。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA )
 とまれ、この汎スラヴ主義ナショナリズムを掲げて、ロシアは、オスマントルコ支配下にあったスラヴ人を「解放」すべく、オスマントルコと累次の戦争を戦うことになりますし、また、第一次世界大戦にも、スラヴ人の国であるセルヴィアを守るために参戦することになるのです。
 (アルバニアやボスニア・ヘルツゴヴィナにはイスラム教徒たるスラヴ人もいたわけですから、こちらの地域に関しては、正教ナショナリズムよりも汎スラヴ主義ナショナリズムの方が舌を噛まなかったことは確かです。)
 (以上、全般的には、下掲に拠った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_nationalism )
 以上のようなこととも相俟って、ロシア人のミハイル・ドルビロフは、「帝国権力とロシア・ナショナリズム とはけっして仲良く調和のとれた関係にあったわけではなかった。
 国民統合の理念は、身分階層のシステムや臣民(とりわけ多様な民族にわたる貴族エリート) のロマノフ王朝への忠誠といった帝国秩序のもっとも深い根幹部分との食い違いをしばしば露呈した。
 19世紀後半からロマノフ家および官僚機構は、支配王朝 への忠節の原則をナショナルな価値・属性と両立させようと努めるようになった。
 このことは国家から自立した意識的な社会エネルギーとしてのロシア・ナショ ナリズムの形成に悪い影響をおよぼすことになる。
 言葉を換えれば、帝国の利害が国民の創設を抑圧したのである。・・・
 <また、>ある種の意味で、ロシアのナショナリズム は、帝国自体が国民の創設を邪魔したのと同じくらい、帝国の創設を妨げたといえる。 ・・・」
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/104/news104-essay1.html
と指摘していますが、これは、概ね私の結論でもあります。
(続く)