太田述正コラム#7443(2015.1.24)
<皆さんとディスカッション(続x2517)/懸案への取り組み(1回目)>
–皆さんとディスカッション(続x2517)–
<太田>(ツイッターより)
 「…ブルームバーグ社は…世界創造力ランキング…を作成。トップは韓国、2~5位は上から順に日本、ドイツ、フィンランド、イスラエルが並び、米国は6位、中国は22位だった。…」
http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0123/c94476-8840253.html
 説明読んでも考え方がよー分からんけど、韓国、おめでとさん。
 「中国の海軍力が年内に日本を追い抜く? 専門家「比較方法が非専門的」…」
http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0123/c94474-8840308.html
 中共当局がその海軍が海上自衛隊より弱いことを公式に認めた。
 私的にも、ジェーンの分析は、殆んどジョークに近いね。
 「質問の内容はまことに摩訶不思議なものが多く、村上<春樹>氏の答えも、それぞれ真面目で素晴らしい。…」
http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0123/c206603-8840443.html
 こちらはいつもの日本ヨイショ記事だ。
 ガーディアンでさえ、そこまで村上回答を絶賛してねーぞ。
 ところで前者だが、率直過ぎるのがいささか気になる。
 だって、日本に再軍備させたいんでしょ?
<MH>
 <本日のオフ会、>一次会には都合により参加できませんので、二次会に参加します。
 太田さんへの質問は以下のとおり。
一、戦前の思想家の考え(行動も含む)は何故戦後省みられないのか?
 丸山真男はほぼ同世代であるのだが、何故あのような戦前史観を持ったのか。
 彼も「曲学阿世の徒」なのか?
⇒コラム#1658、1660から始まり、コラム4784とか、つい最近ではコラム#7386でも説明しています。
 過去コラムにあたる習慣をつけましょう!(太田)
 大川周明、蓑田胸喜、遠山満への忌避感からか、彼らが戦後の論壇では殆ど無視されるのは何故なのか?
⇒一人一人調べたわけではありませんが、吉田ドクトリンの観点からは、押しなべて嫌悪の対象、ということでは?(太田)
二、今回「イスラム国」の事件が発生したが、戦後海外テロ及び戦争が発生する度に、日本政府は無作為な行動しか取れていない。
 一番の原因は外交・安全保障を放擲したことによる、軍事オプションが無いためであるのだが、1975年クアランプール事件、1977年ダッカハイジャック事件、1991年湾岸戦争、1996年在ペルー公使館人質事件、今回も含めてそういう議論には全くならない。
 9.11以降15年が経過して、海外の軍隊は押しなべてテロ対策装備への予算配分を重視している(無人機、工兵ロボット、防弾チョッキ、カービン銃etc)のだが、自衛隊は依然として正面装備に拘り、テロ対策訓練も装備も全く行わないのだが、この方面への関心が皆無なのは何故なのか?
 4兆7千億円もの予算でテロには役立たずの戦車や軍艦を揃える必要なぞないのだが、何故そういう意見が全く誰からも出ないのか?
⇒陸上自衛隊に特殊作戦群
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6%E7%BE%A4
がありますよ。
 ネットで調べる習慣をつけましょう!(太田)
PS:参加時に、
遠藤誉著:チャイナセブン(ナインの続編)
玉居子精宏:大川周明 アジア独立の夢
佐藤優:日米開戦の真実(大川周明の米英亜細亜侵略史を読み解く)
を献本します。
 コラムにしてくださるよう願います。
⇒どうもありがとうございます。
 あなたに提供を受けた遠藤さんの前著は参考になったので、今回も期待しましょう。
 大川周明については、考察するいい機会かもしれませんね。
 (佐藤優の本は読まないままになる可能性も・・。
 なぜだかはご存知ですよね。)(太田)
<太田>
 それでは、その他の記事の紹介です。
 頑張れー。↓
 「窃盗容疑で小保方晴子氏を刑事告発へ・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/9709637/
 「判明したSTAP細胞の正体 最後に残る謎・・・」
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82193330R20C15A1000000/?dg=1
 本日のオフ会「講演」の内容に関係している記事なので、紹介しておきます。↓
 「中国、中国医学の博士号・修士号設置へ・・・」
http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0123/c94475-8840412.html
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 一人題名のない音楽会です。
 郷愁シリーズの第3回です。
ペルシャの市場にて(In a Persian Market) 作曲:アルバート・W・ケテルビー(Albert William Ketelbey)
https://www.youtube.com/watch?v=6Ede2QMi5JM
中東の大国ペルシャの市場の風景が、出入りするラクダの隊商や蛇使い、占い師、物乞いなどを思わせる曲のモチーフによってノスタルジックに表現されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%81%AE%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AB%E3%81%A6
 アルバート・ケテルビー エキゾチシズムの産物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%BC
楽曲「ノスタルジア」アンドレイ・タルコフスキーの追憶に(1987年) 作曲:武満徹 指揮:? オケ:?
http://www.youtube.com/watch?v=rsoasORXyj0
映画「ノスタルジア」(監督:アンドレイ・タルコフスキー 1983年)
「タルコフスキー監督はこの映画の制作においてソ連から出国し、完成後に亡命した。・・・ところどころに「故郷」の美しい光景が、長いカットで挿入されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A2_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nostalghia
(続く)
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        –懸案への取り組み(1回目)(於2015.1.24東京オフ会)–
I ヨガと瞑想
1 始めに
 「「瞑想とヨガ」について、このところ、折に触れて考えているんだけど、意外にむつかしくって困っている。何か、ヒントになりそうなネット上の典拠をご存知の方はご教示いただきたい。」と昨年11月中旬に呼びかけた(コラム#7317)のですが、反響ゼロ。
 やむなく、自分でお茶を濁した程度の回答を試みました。
 なお、もう一つの懸案である「イギリスの2度の「鎖国」期」についてもそうなのですが、今回の「講演」は、肩の凝らない漫談、としてお聞きいただければ幸いです。
 というわけで、オフ会出席者への事前の「講演」原稿の配布もオフ会当日の朝になってしまいましたが、あしからず。
2 ヨガを巡る最近の動き 
付図1参照。(有料読者は付図を収録したファイルに、来月初頭からアクセスできる。(以下同じ))
 「インドの新しいヨガ担当相であるシュリパド・イェッソー・ナイク(Shripad Yesso Naik)<(注1)>は、<ヨガの>太陽への諸挨拶(salutations)と下向き犬のポーズが世界中のみならず、彼らの母国でも人気があるようにいつかなる日のことを夢みている。
 (注1)1952年~。1999年に国会議員に初当選。モディ首相によって、文化・観光大臣に任命され、ヨガと伝統医療担当相を兼任している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shripad_Yasso_Naik
 ボンベイ大とゴア大で学ぶ。(学士。)
http://164.100.47.132/lssnew/Members/Biography.aspx?mpsno=273
 そうなのだ。
 インドは今やヨガ担当相を持っているのであり、彼と彼の政府は、自分達の文化的至福が再来することを欲しているのだ。
 インドのヨガの伝統は、何千年も前に書かれたヒンドゥー教の諸文献の中に出現する。
 しかし、この修行法(discipline)は、欧米において何10億ドル産業となっているところの、人気のある運動法(exercise regime)とは似ても似つかないものだ。・・・
 インドの新首相のナレンドラ・モディは、この試みを推進している。
 この64歳の首相は、毎日5時に起きて、ヨガの諸ストレッチと深呼吸を行っている。・・・
 ヨガがトレンディになってきたのは、わずかこの20年のことであり、それは、諸スタジオが開設されるとともに、インド映画の著名俳優達がフィットネス諸ビデオを作るようになってからだ。
 その功績の若干は、サフラン色の(saffron)衣を纏ったグル(guru)である、ババ・ラムデヴ(Baba Ramdev)<(注2)>に帰せられる。
 (注2)生年不明。正規の学校教育を受けていない。世界中でヨガ普及活動を行ってきており、最近では、腐敗撲滅運動等、政治的活動も活発に行っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ramdev
 彼は、ヨガの人気を高めたが、彼が言っているのは、その健康上の諸効果だ。
 彼は、同性愛性向をなくすことができ、癌や豚インフルを治癒することができる、と数百万人が見ている朝のTV番組で主張している。
⇒ラムデヴは、非科学的であるとともに、同性愛を排撃しています。
 こんな偏見に囚われているところを見ると、彼のヨガには、あらゆる偏見から人を解放するはずの念的瞑想が取り入れられていない、と見えます。
 ゴア州政府のスポーツ・青年相であるラメシュ・タワドカール(Ramesh Tawadkar)(注3)が、ゴア(Goa)州が同性愛の人々を「正常」にする計画に関し、この州の政府が、リゾート地域内で「同性愛者達を訓練し諸薬を投与する」ことを計画していると語ったことで憤激を買った。」
http://www.theguardian.com/world/2015/jan/13/indian-minister-outrage-plans-make-gay-people-normal (1月15日アクセス)ことからも、彼らが信奉するヒンドゥー教や、キリスト教に比した仏教の文明的優位は明らかです。(注4)(太田)
 (注3)モディ首相を党首とするヒンドゥー教政党であるBharatiya Janata Partyの幹部の一人。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2907749/UN-chief-accuses-India-intolerance-gay-sex-ban.html
 (注4)「ヒンドゥー教においては、・・・性の垣根を越えたような神格が登場するものの、地上世界における同性愛には否定的で法典類では罰金が定められている。ただし『マヌ法典』などではカーストからの追放といった厳罰を定めている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B
 ババ・ラムデヴは、モディの緊密な同盟者でもある。・・・
 聖人達やグル達は、ヒマラヤで実践してきており、一般民衆にそれを紹介しようとすることは決してなかったのであり、ババ・ラムデヴだけがそれを人々にどう紹介したらよいかを知っていたのだ<、という声がインドにはある>。・・・
 我々は、ヨガがインドのものだと主張するつもりはないのであり、ヨガの背後にある哲学はヒンドゥー教に立脚している、と指摘しているだけなのだ、と。・・・
⇒後で再述するように、この認識は誤りです。
 ヨガは、ヒンドゥー教はもとより、そして、ヒンドゥー教に先立つ仏教はもとより、それよりも先立つヴェーダ哲学、よりも更に古く、インダス文明に由来するものだからです。(太田)
 欧米は、ヨガを自分達自身の諸便益のために操ってきた。
 それは、どちらかというと運動(exercise)のようだ。
 しかし、伝統的なヨガは、それだけでは全くないのだ。
 それは、究極的には、心(soul)のための啓蒙を達成することに関するものなのだ、と。・・・」
http://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/indias-new-prime-minister-narendra-modi-wants-to-rebrand-and-promote-yoga-in-india/2014/12/02/7c5291de-7006-11e4-a2c2-478179fd0489_story.html?hpid=z1
(12月3日アクセス)
⇒上掲の最後のくだりは、「伝統的なヨガは」を「伝統的なヨガの一部は」と限定すれば、あながち、間違ってはいません。(太田)
 「国連は、6月12日を国際ヨガ日であると宣言する決議を採択した。
 このアイディアは、インドのナレンドラ・モディ首相によって、彼の国連演説の間に提示されたものであり、ヨガをインドによる世界への贈り物であるとし、ヨガの精神的諸側面は、地球温暖化に対する解決策を提供できることを示唆した。・・・」
http://www.bbc.com/news/magazine-30438566
(12月12日アクセス)
 「ヨガにはたくさんの異なった諸タイプがある・・・が、その大部分は、<英国>政府が、我々の心肺を運動をさせるために毎週やらなければならないとしているところの、150分の中程度の(moderate-intensity)有酸素活動(aerobic activity)として勘定される水準に達していない。
 <また、>ヨガは、同じガイドラインによれば、我々が毎週、一週間に2日以上、やらなければならないところの、筋肉を強化する運動としても勘定されない。・・・
 速足やジョギングといった他の諸タイプの運動の水準と比べると、ヨガは心臓疾患<防止効能>という同じ諸尺度に比べて可もなし不可もなしといったところだった。・・・
 <だから、>ヨガが有意義である(beneficial)かもしれない理由は良く分からないのだが、専門家達は、その気持ちを落ち着かせる(calming)効果に帰着するのではないか、と言っている。
 ストレスは、心臓疾患や高血圧に繋がっているとされているからだ。・・・
 「<ヨガの>諸便益は、諸筋肉と呼吸法に由来する可能性がある。
 それらが、体により多くの酸素をもたらし、血圧を低下させるわけだ。・・・
 ヨガの感情的(emotional)健康への諸便益は確立されている<、という意見がある。>」
http://www.bbc.com/news/health-30475999
(12月17日アクセス)
⇒この記事の冒頭に掲げられている、学校教育の一環としてのヨガ風景の写真(付図1)は、生徒達が座禅を組んでいるものですが、それは、念的瞑想を意図したものではなさそうです。
 ということは、インドが復興しようとしているヨガは、念的瞑想は視野に入っていない、と見てよさそうだということであり、当然、それは、欧米におけるヨガを研究した上で復興しようとしているはずであるところ、欧米におけるヨガもまた、念的瞑想は視野に入っていないのではないか、と想像されます。(太田)
参考1:ヨガを巡って
 仮に、以上の私の想像が正しいとすれば、もはや、ヨガの歴史を振り返り、その瞑想、就中念的瞑想、との関係を考察する必要はないはずです。
 ということで、以下は、付けたりです。
–ヨガの起源–
 下掲のウィキペディア群を読んだが、インダス文明にまで遡るその淵源はともかくとして、ヨガの起源はよく分かりませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yoga
http://en.wikipedia.org/wiki/Sutta_Pitaka
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E5%AD%A6%E6%B4%BE
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B4%BE%E5%93%B2%E5%AD%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80
–性的ヨガと仏教–
 まさに、漫談に属しますが、大変面白かったので、重複部分を厭わず、表記に関わるウィキペディアからの引用を掲げておきました。
 「タントラ(・・・Tantra)とは織物を意味するサンスクリットで、インドに古くから伝わる宗教の聖典(経典)のこと。さらには実践行法に関する規則、神を祀る次第や具体的方法も含む。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9
 「・・・仏教は、そもそもインド征服集団であるアーリヤ人が持ち込んだヴェーダを奉じる、司祭階級バラモンを中心としたいわゆるバラモン教に対するカウンターの1つとして、クシャトリア階級の自由思想家の一人であるゴータマによって興された宗教であり、両者は(類似部分も多いものの)潜在的な対立関係にあった。
 仏教教団はマウリア朝からクシャーナ朝にかけて、国家の庇護を受け、隆盛を誇る。その文化は続くグプタ朝においても花開くが、一方で、この頃形としてまとまった『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などを契機として、民間伝承を取り込んだ庶民的な宗教として生まれ変わったバラモン教、すなわちヒンドゥー教が台頭してくることになる。こうして出家者中心の理論的・瞑想的な仏教が一般庶民の求心力を失っていくのとは対照的に、ヒンドゥー教が勢力を広げることになり、かつての関係・立場は逆転する。
 この状況に危機感を募らせた仏教側のリアクションとして、5世紀頃から登場したのが、ヒンドゥー教的要素を積極的に取り込み、壮大な神々の体系(曼荼羅)と儀礼、呪術、超能力、動的な身体・象徴操作、現世利益などを備えた、いわゆる密教である。
 その体系は徐々にまとめられ、7世紀に『大日経』『金剛頂経』が成立するに至り、一応の完成を見る。これが日本にも真言宗として伝わっている中期密教(純密)である。
 しかし、インド仏教界はこれに飽き足らず、さらなるヒンドゥー教への対抗、庶民に対する訴求力・求心力の維持・強化、そして仏(世界)との合一手段探求・強化の一手として、「性」と「チャクラ」(つまるところ「クンダリニー・ヨーガ」および「シャクティ信仰」)に、よりいっそう深く踏み込んでいくことになる。こうして生み出されたのが、後に無上瑜伽タントラと総称されることになる後期密教経典群である。
 『大幻化網タントラ』が登場したのを皮切りに、8世紀後半には「ブッダは一切の如来達の身・語・心の源泉たる、諸々の金剛女陰に住したもうた」という衝撃的な文言から始まる『秘密集会タントラ』が成立し、11世紀の『時輪タントラ』に至るまで様々な経典が作られ、それに基づいて「性的ヨーガ」が実践されてきた。性行為は初期仏教以来の戒律と真っ向から衝突するため、僧院においてはあくまでも観想として、身体・思考操作を駆使してその状態を再現するという、伝統の立場に立つ無上瑜伽タントラの各種の三昧耶戒に基づく解釈・試行がなされた。しかし、最終的な解決をみないまま、12世紀末から13世紀初頭にかけて、イスラーム王朝であるゴール朝の北インド侵攻によって、ナーランダー大僧院、ヴィクラマシーラ大僧院といったインド仏教拠点が次々と破壊され、インド仏教はその歴史を閉じることになり、その課題は後継であるチベット仏教に残されることになる。
 後期密教における性的ヨーガの扱いは、後期インド仏教、そしてチベット仏教においては大きな課題であった。特に、性的な節制を要求する初期仏教以来の戒律と衝突する点が大きな問題であった。とはいえ、インドの密教が至上の教えと信じられていた当時は、まだ無上瑜伽タントラの教えや密教の戒律である三昧耶戒の口伝は十分に理解されておらず、後期インド仏教における数々の課題を受け継いだままであり、女性パートナーを伴う性的ヨーガがしばしば行われていた。
 チベット仏教の復興者であり、顕密統合志向であったヴィクラマシーラ大僧院(インドの密教大学)出身のインド僧アティーシャの考えを継承し、顕教と密教、戒律と性的ヨーガを体系化したツォンカパは、性的ヨーガの有効性を認めつつも、その実践を事実上禁止し、あくまで観想でのみ行うよう求めた。彼を祖とするゲルク派は、数多くの厳しい戒律を持ち、また、出家として生涯独身を貫く清新さを保つことで多くのチベット人の支持を得たため、モンゴルへの布教も成功し、チベット仏教最大宗派へと成長した。他の三大宗派もこれに倣って現在に至る。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E4%B8%8A%E7%91%9C%E4%BC%BD%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9
 「・・・密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことでインド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛とインド仏教の衰退を変えられなかった。・・・
 後期密教・・・ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。・・・
 チベット仏教は、「無上瑜伽タントラ」と呼ばれるインドの後期密教経典と、それに基づく行法を継承している。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
 「立川流とは、鎌倉時代に仁寛によって開かれ、南北朝時代に文観によって大成されたとされる密教の一派である。「真言立川流」(しんごんたちかわりゅう)ともいう。
 経典は般若波羅蜜多理趣品、空海が将来した所謂理趣経(りしゅきょう)で、荼枳尼天(だきにてん)を拝する。本来仏教では性交は不淫戒で誡められているが、密教では瑜伽タントラの理趣経や多くの無上瑜伽タントラによって肯定されており、性交を通じて即身成仏に至ろうとする教義解釈がある。ただし、日本には瑜伽タントラまでは多く伝わっているが、具体的に性交を論じた無上瑜伽タントラは部分的にしか伝わっていないため、立川流を除く多くの密教では性交には否定的である。・・・
 立川流が東密(真言密教)の流れを汲む邪宗とされるのに対し、台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とする玄旨帰命壇という一派があった・・・
 男女交合の境地、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であるとされる・・・
 立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_%28%E5%AF%86%E6%95%99%29
参考2:道教
 「道教(Taoism=Daoism)は、人間と自然世界との調和を強調する支那諸慣習に立脚する哲学及び宗教的諸信条の古来からの派(tradition)だ。・・・
⇒この説明では、あたかも、道教は人間主義的哲学・宗教であるかのような誤解を生みます。
 「道教は・・・道(タオ)・・宇宙と人生の根源的な不滅の真理・・と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする・・・漢民族の土着的・伝統的な宗教である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
ことを肝に銘じるべきでしょう。
 なお、道教は、「仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編ん<だ>」(上掲)ところです。(太田)
 <道教は、>調和、陰(yin)と陽(yang)、<人が>互いに善くあること、に係る信条だ。・・・
⇒「万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという・・・五行思想または五行説・・・<と>春秋戦国時代の末頃に・・・陰陽五行説と<して、>・・・一体で扱われるように」なったところの、陰陽説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3
は、五行説とともに、「道教に取り入れられていた要素<の一つ>に過ぎなかった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
のであり、道教にとって本質的要素とは必ずしも言えません。(太田)
 道教は、太極拳(tai chi)<(注4)>、漢方医学(traditional Chinese medicine=TCM)、気功(qigong)<(注6)>といった諸実践を通じて人々に影響を与え続けている。
 (注4)「太極拳の健康効果は古くから知られていたが、その習得は容易ではなく、万人向けと言えるものではなかった。そのため<中共>政府・国家体育運動委員会は、第二次世界大戦後、伝統拳の健康増進効果はそのままに、誰にでも学ぶことのできる新しい太極拳を作ることを計画。・・・1956年に簡化太極拳(二十四式太極拳)を制定した。これが制定拳の始まりである。制定拳という名称は本来、「国家が制定した套路」という意味を持つ。制定拳は一種の健康体操として世界的に広められ<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E6%8B%B3
 (注5)「漢方医学(かんぽういがく)または漢方は、狭義では漢方薬を投与する医学体系を指す。また漢方は、漢方薬そのものを意味する場合もある。広義では、中国医学を基に日本で発展した伝統医学を指し、鍼、灸、指圧なども含む。現在日本の東洋医学業界では、古典医学書に基づく薬物療法を漢方医学、経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法を鍼灸医学、両者をまとめて東洋医学と呼んでいる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%96%B9%E5%8C%BB%E5%AD%A6
 (注6)「<支那>伝統の民間療法、代替治療」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E5%8A%9F
⇒気功は道教と関係はありませんし、太極拳と漢方医学は、陰陽五行思想と関係があるという点で、道教と接点はある、という程度の話であり(それぞれの上掲ウィキペディア)、このコラムの筆者の指摘は牽強付会に近い、と言うべきでしょう。(太田)
 ・・・宗教たる道教について限定的な知識しか持っていないにもかかわらず、中共以外で、約3億人が漢方医学を用いており、何百万人が太極拳と気功を実践している。・・・
 ・・・<ところが、>仏教やヒンドゥー教とは違って、欧米では、道教の諸教師(masters)はいないのだ。・・・」
http://chinawatch.washingtonpost.com/2014/12/foreigners-flock-to-taoism-for-natural-balance/#^eyJocmVmIjoiaHR0cDovL3d3dy53YXNoaW5ndG9ucG9zdC5jb20vIiwiYWRVbml0Ijp7InNlcnZlciI6ImRmcCIsImlkIjoiLzcwMS93cG5pLndhc2hpbmd0b25wb3N0LmNvbSIsInNpemUiOiIxeDgiLCJ0YXJnZXRzIjp7InBvcyI6ImJyYW5kY29ubmVjdCJ9fSwibGFiZWwiOiJIb21lcGFnZSIsInNlbGVjdG9yIjoiI3NsdWdfYnJhbmRjb25uZWN0X21vZHVsZSIsImNyZWF0aXZlIjoiYzFlYmIxYzY0OTU0NDQ3ZWFkMGE2NGQ1MGFiMGIyNTciLCJleHBlcmllbmNlVHlwZSI6ImluYm91bmQifQ%3D%3D
(1月21日アクセス)
⇒欧米、とりわけ、イギリスと欧州においては、世俗化・・キリスト教及びキリスト教の変形物の表見的衰亡・・に伴い、アジアに新たな精神的拠り所を求めようとする機運が高まる一方のようです。
 その中で、一番まともなのは、念的瞑想への関心ですが、ヒンドゥー教や気功への関心は、病理的であると言うべきでしょう。
 なぜなら、私見では、ヒンドゥー教はインドの退廃の原因であり結果でもあるところの、迷信に他ならないからですし、気功もまた、イリュージョンに他ならないからです。
 (道教もまた、支那の退廃の原因でもあり結果でもあると言えるでしょう。
 ヒンドゥー教も道教も、現世利益を追求する迷信以上でも以下でもない、というのが私見です。)
 若干の意義がありそうなのが、ヨガ、太極拳、そして漢方医学への関心です。
 ヨガと太極拳は、軽い運動という点で、高齢者等の運動には向いていますし、漢方医学は食餌療法として有効な部分がある、と考えられるからです。(太田)
 
参考3:欧米におけるウェルネス症候群
 「「健全な精神は健全な身体に宿る(mens sana in corpore sano)」<というラテン語の諺があるが、>・・・我々が生きているこの時代では、その代わりに、想念(thought)が悩ますことがないところの、心を平静(calm)にすることを目指して、牛のように<あらゆるものを>受け入れる(bovine acceptance)状態にする、「念(mindfulness)」が公的に奨励されに至っている。
 <すなわち、>ウェルネス(wellness)<(注7)>という現代的観念は、深い思考とは対蹠的なものなのだ。
 (注7)「ウエルネス((健康増進health promotionを図る制度を示すために用いられるが,フィットネスと共に80年代後半から米国で一般に使用されるようになった新用語.ウエルネスとは人々が病気をしないで過ごせる様な健康と積極的なライフスタイルを追求することを意味する。」
http://ejje.weblio.jp/content/wellness
 <深い思考の>代わりに、それは、我々全員が資本主義的生産性のおバカな運動選手達に喜んでなるように奨励するのだ。」
http://www.theguardian.com/books/2015/jan/22/the-wellness-syndrome-carl-cederstrom-andre-spicer-persuasive-diagnosis
(1月23日アクセス)
⇒このコラム筆者は、「念」ないし「念的瞑想」の意味、意義が、分かっていないわけですが、恐らく、これが、英米の大部分の知識人の「念的瞑想」観なのでしょう。
 だからこそ、同じくアジア由来ではあっても、念的瞑想は喧伝される割には普及せず、むしろ、ラテン語の諺に則ったところの、「健全な身体」をつくるフィットネスの手段としてのヨガや太極拳が流行っている、ということなのでしょうね。(太田)
  付図2参照。(付図1との符合が面白いですね。)
II イギリスの2度の「鎖国」期
1 始めに
 今度は、下掲に対する、私なりの回答です。
 「アルフレッド大王・・・からカヌート(Cnut)・・・まで、次いで、(ウェールズとともに)チューダー朝期の間、においてのみ、イギリスは、孤立した政治的実体(entity)として機能した、と彼はこの本の中で指摘する。」・・・
⇒このくだりの意味はよく分かりませんでした。
 少し、考えてみたいと思います。(太田)」(コラム#7332)
2 孤立期
 (1)第一次「鎖国」期
 第一次「鎖国」期
  付図3参照。
 「[825年、21代目のサクソン(注7)系のウェセックス王家のウェセックス王の]エグバート([Egbert。769?~839年。ウェセックス王:802~839年。イギリス王:825~839年])は、[アングル(注7)系のマーシアを破って]<イギリス>を統一し、それ以降、エグバートの子孫が<イギリス>王位を継承した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%AE%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88_%28%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E7%8E%8B%29 ([]内)
 (注7)イギリスへの「アングル人・サクソン人・ジュート人」渡来、と説明されながら、ジュート人については、余り言及されることがない。
 ジュート人の「原住地はユトラント半島北部やヴェーゼル川河口の地域。英語の「ジャットランド」(ドイツ語の「ユートラント」)は、「ジュート人が住む地」を意味する。・・・七王国の一つケント王国を建国したといわれ、領内のカンタベリーからキリスト教がブリテン島に広まった。後にジュート人はアングロ・サクソン人に同化し、その痕跡を止めていない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BA%BA
 ヴェーゼル川は、「ドイツ中部の中低山地から北ドイツ低地へ北に向かって流れる川」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E5%B7%9D
 ただし、統一されたとは言っても、覇権を確立したに過ぎなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88_%28%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E7%8E%8B%29 前掲
 真にイギリスの統一を成し遂げたのは、エグバートの孫で、エグバートから(その息子たる父親、そして、3人の兄を経た)5代目のウェセックス王のアルフレッド(Alfred。849~899年。イギリス王:871~899年)だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E5%A4%A7%E7%8E%8B
 さて、アルフレッドの時代には、まだ北東部にデーンロー(バイキングたるデーン人の占領地)が残っており、これを解消したのは、アルフレッドの息子のエドワード長兄王(Edward the elder。874/877?~824年。イギリス王:899~924年)の時だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E9%95%B7%E5%85%84%E7%8E%8B
 しかし、エドマンド2世(EdmundII。988/993?~1016年。イギリス王:1016.4.23~11.30)の時に至り、下掲のような事情で、イギリスの第一次「鎖国」時代は終わりを告げる。
 「<エドマンドは、>エゼルレッド2世・・・の次男。・・・1014年に<長兄>が亡くなって、エドマンドが王位継承者となった。そこからエドマンドと父王の権力闘争が始ま<ったところ、>・・・<デンマーク軍が>侵略してきた。1016年、エドマンドはノーサンブリア伯Uhtredと共に反乱を起こしたが、Uhtredがエドマンドを捨て、<カ>ヌートに屈したため、エドマンドは父親と和解した。しかしエゼルレッド2世は以前から体を害していて、その年の4月23日に亡くなった。エドマンドは<イギリス>王に即位し<たが、>・・10月8日、・・・決定的な敗北を<デンマークの王子のカヌートに>喫した。戦いの後、両王は和平交渉をし、エドマンド2世がウェセックスを、<カ>ヌートはテ<->ムズ川の北を領有することになった。同時に、どちらかが死んだ時は、死んだ方の領土を生きている方に譲るということにもお互いが同意した。1016年11月30日、エドマンド2世は・・・亡くな<り、>エドマンド2世の領土はクヌートに譲られ、<カ>ヌートは<イギリス>王になった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%892%E4%B8%96_%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29
 第一次非「鎖国」期
 –総括–
 「11世紀にはデンマーク王家が<イギリス>王位を得たが、ハーデクヌーズの死後、異父兄エドワード懺悔王が即位し、<イギリス>王位は・・・ウェセックス・・・家に戻った。しかし、1066年のエドワード懺悔王の死後、義兄ハロルド2世が即位、その後わずかな期間エドガー・アシリングが王位を称するも、同年ノルマンディー公ギヨーム2世がウィリアム1世としてノルマン朝を創設し、同王家は断絶した。血統的には、アルフレッド大王の娘エルフスリュス(フランドル伯ボードゥアン2世と結婚)の子孫マティルダ<・オブ・フランダース(注8)>がウィリアム1世妃に、また、エドガー・アシリングの姪マティルダ・オブ・スコットランド[(注9)・・マティルダが名親・・]が[ウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの間の息子である]ヘンリー1世の王妃になっており、<同王家は>女系を通して現<イギリス>王室に<二重に>つながっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%AE%B6 前掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Matilda_of_Flanders ([]内)
 (注8)1031?~1083年。歴代イギリス王妃中、最も小柄とされている。但し、150cm未満だったという説と152cmだったという説がある。ウィリアムは一穴主義を貫いたが、彼と彼女の馴れ初めの物語は有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Matilda_of_Flanders
 (注9)曽祖父がイギリス王エドマンド2世、父親はスコットランド王マルコム3世。彼女の娘のマティルダの、(最初の夫である神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世死去後に再婚した)アンジュー伯との間の息子のアンリがヘンリー2世としてイギリス王となる。
 マティルダ・オブ・スコットランドは、抜群の容姿の持ち主であり、子守唄の「ロンドン橋落ちた(London Bridge Is Falling Down)」
( https://www.youtube.com/watch?v=uJ637HpzUFU )
に登場するFair Ladyは[ロンドン橋の建設の責任者であった]彼女のことであると考えられている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Matilda_of_Scotland
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%A9%8B%E8%90%BD%E3%81%A1%E3%81%9F ([]内)
 (但し、この歌に関する日本語ウィキペディア上掲では、諸説のうちの一つ、としている。
 なお、「橋が崩壊を繰り返したのは12世紀までであり、1209年に石の橋が完成してからは、橋の崩壊はなくなった。しかしこの石橋の上には礼拝堂や民家・商店が立ち並んでおり、それらが火事で焼失することはあった。さらに、1553年には、ヘンリー8世による宗教改革により、橋の上の礼拝堂が取り壊された。」(上掲))
 –各論–
 クヌート(カヌート)。 「デンマーク王スヴェン1世の子。・・・父スヴェン・・・と共に<イギリス>に侵攻して活躍した。1014年、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、<イギリス王に即位した>。1018年には兄ハーラル2世の死によりデンマーク王位<も>継承した。その後はノルウェーやスウェーデンに遠征して勢力を拡大した。1028年にはノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 ハロルド(Harold)1世(1015?~1040年。イギリス王:1035/1037~1040年)。「<カ>ヌートの死後、<カヌート>とその妃エマ・オブ・ノーマンディーの子、ハロルドにとっては異母弟にあたるハーデクヌーズが<、ハロルドの母親のエルギフ・オブ・ノーサンプトン(Aelgifu of Northampton)は、カヌートと仮祝言しただけであったことから、>デンマークと<イギリス>両方の正統な王位継承者だった。しかしハーデクヌーズは、デンマーク王国がノルウェー王・・・とスウェーデン王・・・の侵略を受けていたために、<イギリス>の戴冠式に行くことができなかった。<イギリス>の有力者たちは、ハーデクヌーズ不在の難事のために、ハロルドを一時的に摂政に就任させるというアイディアを支持し<、>・・・結局ハロルドが王冠をかぶった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%891%E4%B8%96_%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29
 ハーデクヌーズ(Hardeknud)(1018~42年。デンマーク王:1035~42年。イギリス王:1035~37年、1040~42年)。「ハーデクヌーズは後に懺悔王とよばれる異父兄エドワード(母エマとエゼルレッド無思慮王の息子)をノルマンディーへの追放から連れ戻し、副支配者そして後継ぎにした・・・エドワードが王位を継いだことによりサクソン王家の血筋による王位が戻った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%BA
 エドワード懺悔王(Edward the Confessor。1004?~1066年。イギリス王:1042~66年)。「エゼルレッド2世と2度目の妃エマの子。エドマンド2世の異母弟。・・・Confessor」とは、迫害に屈せず信仰を守った聖人を呼ぶ際の称号のひとつ・・・<彼は、ウェセックス伯ゴドウィンの娘のエディスと>形式として婚姻関係を結んだ<が>・・・修道士としての純潔にこだわったため、後継ぎをもうけることがなかった。・・・エドワードは支配者というよりは、心情としては修道士で、柔弱と無為無策ぶりでサクソン国家を定着させる機会を逸し、彼のノルマン人への信頼はノルマン・コンクエストの下地をつくったとされる一方、後世に徳の高い王者として聖人視され、王朝の守護者として尊崇された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E6%87%BA%E6%82%94%E7%8E%8B
 ハロルド2世(1022~66年。イギリス王:1066年)。「ウェセックス伯ゴドウィンの次男でトスティ・ゴドウィンソンとエドワード懺悔王の妃エディスの兄。・・・エドワード懺悔王は臨終の床でハロルドを後継者に指名し、翌日貴族達はウェストミンスター寺院に集結してハロルドを王として承認した。・・・これに対して<イギリス>王の地位を狙う弟トスティはノルウェー王ハーラル3世の後見を得て東部から、<イギリス>王の地位を狙うノルマンディー公ギヨーム2世は南側から<イギリス>に侵入した。ギヨーム2世はかつて懺悔王とハロルドの両方から<イギリス>王位の継承の約束を得ていると主張した。ハロルドは1064年(1065年とも)に難船してノルマンディーのポンテューに漂着し、その時に救助の礼として自身の継承権をギヨーム2世に譲る約束をしていたというのである。
 9月、トスティとハーラル3世がヨークシャーを制圧し、9月20日に地元貴族の連合軍をヨーク近郊で破った(フルフォードの戦い)。これに対してハロルド2世は5日後の25日にトスティとハーラル3世をスタンフォード・ブリッジの戦いで撃破した。
 3日後の28日にギヨーム2世が386キロメートル離れたウェセックスに7000人ほどを率いて上陸すると、ハロルド2世は反転して南に急行。両軍は10月14日、現在「バトル」と呼ばれているヘースティングスの近くで対峙した(ヘイスティングズの戦い)。ハロルド2世はギヨーム2世のノルマン軍を際どい所まで追い込みながらも2人の兄弟と共に戦死した。・・・
 ハロルド2世の死後、サクソン貴族はエドワード懺悔王の又甥エドガー・アシリングを擁立して反乱を継続したが、ギヨーム2世に平定された。ギヨーム2世は12月25日にウェストミンスター寺院で戴冠、<イギリス>王ウィリアム1世となりノルマン朝を開いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%892%E4%B8%96_%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29
⇒政治と宗教の分離を旨としたキリスト教の教義に反し、聖職者意識を捨てきれず、童貞を貫くとともに平和志向であったエドワード懺悔王は、ウェセックス王家の復興の絶好のチャンスを無にしてしまったことになります。
 上述したように、ウェセックス王家の血は、後のイギリス王室に受け継がれることになったわけですが、それは僥倖がもたらしたに過ぎない、と言うべきでしょう。
 仏教的統治を行い、インド亜大陸初めての統一国家たるマウリア帝国を崩壊させ、その後のインド亜大陸の混乱の原因を作ったアショーカ王を思い出しますね。(太田)
 ノルマン朝・プランタジネット朝(含ランカスター朝及びヨーク朝)のフランス・オブセッションについては、改めて取り上げる必要はないでしょう。
 その間の、最も顕著な事件が、言わずと知れた、「フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い」である百年戦争(1337~1453年)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
 その意味において、当時のイギリスが非「鎖国」期であったことは、言うを俟たないところでしょう。
 付図4参照。
 (2)第二次「鎖国」期
 「ヘンリー7世・・・長く対立してきたランカスター家とヨーク家を統合した。・・・<彼>の外交政策は平和の維持による繁栄であった。前任の王たちが失ったフランス内の領土を奪回しようとはせず、フランスと条約を結び、<イギリス>王への僭称者を支持しないよう図った。海軍の重要性を理解し、世界初の乾ドックを建設して、貿易を振興した。
 カスティーリャ王国とアラゴン王国が連合したスペインの重要さを認識し、・・・王太子のアーサー・テューダーをスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンと婚約させた。またスコットランド王国と平和条約を結んで娘のマーガレット王女を国王ジェームズ4世と婚約させた。後にこれは、ジェームズ1世による<イギリス>とスコットランドの同君連合につながることになる。
 さらに、ヘンリー7世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟し、ローマ教皇インノケンティウス8世を説得して王位僭称者たちを破門させることに成功した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC7%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
⇒ヘンリー7世の後を継いだヘンリー8世が文字通り(スコットランドを含む)欧州と、英国教会のカトリック教会からの独立によって、袂を分かったことはご承知の通りです。
 この姿勢を、その後を継いだエドワード6世は踏襲、その後のメアリー1世は、在位した1553~58年の5年間、時計の針を逆に回したけれど、その後を襲ったエリザベス2世がヘンリー8世の路線を確立したわけです。
 なお、欧州の覇者かつ初の世界帝国の長たるフィリップ2世が、この欧州から独立したイギリスをつぶしにかかり、それに失敗したことも、ご承知の通りです。
 付図5参照。
III 男女の平均寿命差問題
 米国の男女の平均寿命差が一時的に、日本よりも大きかったことがあったのかなかったのか、あったとして、それをどう説明したらよいのか、については、今回はパスしました。
IV  スペイン人のカリフォルニア統治の過酷さの原因
 この懸案については、「カール5世の帝国(続)」シリーズの中(コラム#7440)で既に回答を記したので、そちらに譲ります。
V  内藤湖南の支那発展史観
内藤湖南『支那論』(コラム#7240)を読み始めたところ、内藤が、私とは違って、支那循環史観ではなく、支那発展史観を抱いていることが分かり、内藤をいかなる観点から、どのように批判すべきか、まだ結論が出ていません。
 いずれ、この『支那論』のシリーズを立ち上げ、その中で、この懸案への私なりの回答を提示してみたいと思っています。
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太田述正コラム#7444(2015.1.24)
<2015.1.24東京オフ会次第>
→非公開
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