太田述正コラム#7270(2014.10.29)
<露・日・印は同類?(その5)>(2015.2.13公開)
 ラジヴ・マルホトラ(Rajiv Malhotra)<(注14)>という金持ちの事業家のように、いまだにこれら諸尻尾にしがみついている他の者達の中にも、モディ氏によって、「我々のカネに換算できない先祖伝来の遺産を称えた」と歓呼して迎えられた者がいる。
 (注14)1950年~。インド系米国人。コンピューターとテレコムの諸産業の事業家だったが早期(44歳)に引退し、財団を設立して、ヒンドゥー教に立脚した慈善・教育諸活動に従事している。
 インドのデリーの聖スティーヴンス単科大学で物理、米シラキュース大学でコンピューター科学を学ぶ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rajiv_Malhotra
 マルホトラ氏は、彼のニュージャージー州の止まり木から、米国と欧州の諸教会、アイヴィーリーグの学者達、諸シンクタンク、諸NGO、及び、人権諸集団が、<インドの>不可触賤民達やセポイ的知識人達の協力の下に、母なるインドを破砕しようと試みている、というポピュリスト的諸信条(creeds)を、定期的に発表している。
 不合理な考えだと非難されても不思議はないが、マルホトラ氏は、直観的なインド人の世界観は、論理で腐った(logic-addled)欧米の見地(outlook)とは、異なっているだけでなく、それよりも認識論的に(cognitively)優れている、とも主張している。
 極めて異なったヒンドゥー教と仏教という二つの伝統群を合成した観念であるところの、インド哲学の「完全な一体性(integral unity)」、に関する若干の戯言(piffle)でもって、ロシア思想と国体の彼自身のヴァージョンを彼はひねり出したのだ。
 その北アメリカにおける要塞の中で、マルホトラ氏は、「知的クシャトリア達」(知的戦士達)を大量生産することを狙ったワークショップを運営している。
 今日において、インドのクールな(posh)諸飛び地(enclaves)とともに欧米の諸郊外で繁殖しているところの、人種的・宗教的な復讐と救い(redemption)の諸幻想は、<インドにおける、>深まりつつある知的危機と巨大な精神的荒廃(desolation)を物語っている。
 ナイポール氏ですら、短期間、彼がそれまで軽蔑していた、(そして、後にイスラム諸国の超排他主義者達(chauvinists)の間で同定されたところの、)擬態的男っぽさ(mimic machismo)の病理に屈してしまった。
 彼は、遅れて到着した国民的(national)「覚醒」の兆しであって、イスラム教徒の全国的な虐殺の引き金となったところの、1992年におけるバブリ・モスクの気まぐれな破壊に歓呼した。
 その落ち着かない亡命の<日々の>中で歴史の激しいドラマを間接的に(vicariously)生きている、このような今日の欧米における非居住インド人達は、それ以外にも大勢いるのであって、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、先月、19,000人を超える人々が、インドの1000年間にわたる奴隷状況を終わらせることについてのモディ氏の演説に拍手を送った。
 しかし、何億人もの、家や土地のない(uprooted)インド人達もまた、今や、大衆扇動(demagoguery)に全面的にさらされているのだ。
 前例のない今月の公的介入において、インドが「ヒンドゥー教の国」であることから、全インド市民達が自分達自身をヒンドゥー教徒であると同定することを欲しているところの、R.S.S.の現在の長は、国営TVに登場し、イスラム教徒たる潜入者達のことで喚くとともに、中共の諸商品をボイコットするよう訴えた。
 このような粗野な外国人恐怖症は、今や、モディ氏のインドでは公的お墨付きを得ているところ、悪魔的な反ヒンドゥー教に対する再度のマハーバラータに関する、R.S.S.の前の長の願望的思考に比べれば、若干は威嚇度が小さいように見える。
 日本の、支那と太平洋における前世紀における拡張主義的諸博打、及び、最近のロシアのウクライナにおける領土回復主義(irredentism)は、国家の栄達(national aggrandizement)への主流化した修辞が、すぐに無謀な戦争挑発へと滑り落ちていくことを示している。
⇒これが、現在のロシアについても、そして、戦前の日本についてはその数等倍、浅薄な論評であることは、繰り返し指摘する必要もありますまい。(太田)
 確かに、超大国の成り済ましファン(wannabe)国群における統治諸階級は、複雑な諸力を大量産出してきた。
 すなわち、現代の国家とメディアと核技術とともに枢軸を形成しつつあるところの、反帝国主義的帝国主義のイデオロギーは、イスラム原理主義者達など顔色なからしめる(toothless)ことができるのだ。
 我々は、インドの民主主義的諸制度が、<戦前の日本、現在のロシアの選良に続く、>もう一つの傷ついた選良が、地政学的、軍事的な男らしい営み(manhood)に向けて急に乗り出すことを抑制することができるほど強靭であることを祈るばかりだ。
3 終わりに
 終わってみれば、わずか、2行半訳さなかっただけで、ミシュラのコラムのほぼ全文を邦訳してしまっていました。
 とまれ、インドの現政権及びその政権の支持者達のヒンドゥー至上主義的な主張といい、それらに対する、(前政権の意向を代弁していると思われるところの)イギリスかぶれのミシュラの主張といい、嘆かわしい限りであり、当面、インドには何の期待も持たない方がよさそうだ、というのが私の結論です。
(完)