太田述正コラム#0290(2004.3.16)
<張学良(その2)>

 (本編は、コラム#187(2003.11.11)の続編です。)

張学良は、父張作霖が匪賊であった時代にある富豪を襲撃略奪した時、人質として奪った娘を妻に娶って生まれた子供です(古野直也「張家三代の興亡―孝文・作霖・学良の"見果てぬ夢"」芙蓉書房出版1999年、32頁)。
父張作霖は無学でしたが、息子の張学良には家庭教師をつけ、教育します。16歳からは英会話も身につけさせ、張学良は後に支那の軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となります。英語を通じてすっかり米国かぶれになった張学良は、「遅れており、貧しい」日本に対する軽侮意識を身につけます(109、126、127頁)。
彼は、16歳の時に最初の結婚をさせられ、17歳の時に第一子ができ(http://www.clarity4words.co.uk/amarshall.htm.。2003年11月10日アクセス)、19歳の時には、父によって早くも陸軍少将に任じられています(35頁)。張作霖の溺愛ぶりがうかがえます。
1928年に張作霖が日本の陸軍の将校達の手で爆殺されると、27歳の張学良は父の満州における全権力及び巨額の財産を承継します。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降、彼は生涯にわたって誕生日を一ヶ月繰り上げて祝いました(http://taipeitimes.com/News/local/archives/2001/10/16/107338。2003年11月10日アクセス)。
そして、父の顰に倣い、日本人の有力者には鼻薬をかがせる一方で、父以上に執拗に排日施策を講じて行きます(注1)。

(注1)例えば1928年、張学良は奉天で面会した政友会の大幹部、床次竹次郎に対し、50万円(当時)という大金を手土産に渡している。他方、張学良が排日を念頭に置いて施行した法令は、国民党政府共通のものを除いてもなお、日鮮人土地租借禁止訓令を始めとして十指に余る(ただし、各省固有のものも含む。138、139頁)。また、彼は満鉄並行線を建設するとともに大連に代わる港の建設も始めた(118頁)。
つい最近までの中共の対日政策はこの張学良のやり口を若干上品にしたものだったとも言える。ところで、1932年の関東州の日本語新聞の三面記事が伝える支那人の日本人に対する犯罪の態様から、中国人犯罪者の「大胆と猛悪と凶暴」、或いは「付け上り的性格」がうかがえる(206??208頁)。こちらも昨今の在日中国人の犯罪者が忠実に受け継いでいるようだ。

1928年末、蒋介石に心酔していた張学良(注2)は、満州に晴天白日旗を翻して南京の国民政府と合流します。

(注2)張学良は蒋介石を全く理解していなかった。これは、彼が蒋介石の暴力団上がりの暗
い過去を全く知らなかったこと(119、259、260頁。コラム#178)、西安事件の後、蒋介石
と南京へ同行するという軽率な行動をとり、以後 50余年にわたって軟禁生活を送ること
になった(222頁)こと、から明らかだ。

 しかし、1931年、満州事変により、彼は満州から逐われます。事変後、張学良が配下の軍(20万人の兵力を擁していた)に対日作戦計画を策定させていたことが判明します(178、179、180頁)(注3)。

(注3)もっとも、このこと自体はさほど驚くべきことではない。米国は、日本等の同盟国をも対象にした各国別の作戦計画をつくり、毎年更新している(典拠失念)。

 張学良はどんな人間だったのでしょうか。
1932年12月、奉天市長(明治大学で法学博士号を取得し、張学良時代に奉天省の法律顧問だった中国人)は、日中両国語で次のようにラジオ放送しました。
「毎日昼間は睡眠し、午後三時か四時頃になって初めて目ざめ、目ざめた後はモルヒネの注射をなし、その注射によって初めて元気になり(注4)、或いは婦女を弄び、或は賭博をうち、或は猥談に耽り、正しい言葉は決して聞こうとせず、夜を徹して遊び狂い、朝の七時になって漸く床に就く。その性質は極めて残忍で、怒る時は恣に人をいじめ、時には虐殺することもあります。・・東北四省の政権を握って居た張学良は即ち斯様な人物であります。」(123頁)

(注4)もともとアヘンを嗜んでいた張学良をモルヒネ中毒にしたのは、アヘン中毒を治す薬だ
と偽ってモルヒネを注射した日本人医師(特務機関員)だったという説がある
(clarity4words.coの前掲サイト)。

張学良の司令官ぶりについては、「 ・・前線に赴く途中、15キロごとに乗っている車を止めさせてモルヒネを注射した。・・彼は毎日100本注射した。通常の人間なら10本で死ぬ量である。・・ある作戦会議で、彼はオーバーのポケットのなかの命令書を出すのを忘れて、その命令を下さなかった。また、張は自分の部隊がどこにいるのか知らないと言った。これでどうやって軍を指揮するというのか」(畢万富「新発見によって張学良の抗日の主張を論ずる」1996年1月16日(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/QCao/cao30.htm(2003年11月11日アクセス)より孫引き))という有様でした。
1931年から1933年の北京時代に、彼は公金を300万元着服して米国の銀行に預けていることが判明し、(これは蒋介石らがやっていたことと同じなのです(コラム#179)が、)国民党政府の公職を辞さざるを得なくなります。彼が北京の故宮の宝物の窃盗・販売に勤しんだことも問題にされ始めます。
満州事変以来、満州を無抵抗で日本軍に明け渡したため白眼視されていた(コラム#187)ということもあり、張学良(32歳)は、上海の米国人医師の診療院で二ヶ月かけて麻薬中毒を治してから、欧州に8ヶ月間、「逃避行」にでかけます。
(以上、128、129、148、149頁。)

(続く)