太田述正コラム#0302(2004.3.28)
<シバジ騒動(その2)>

2 論点

 実は、レーン(professor of religious studies, Macalester College in St Paul, Minnesota)は米国の学会の通説に従って本を書いただけなのです。
 そこで、シバジに関する米国の学会の通説をご紹介しましょう。
 
 シバジは、インドにおけるゲリラ戦の創始者と言ってもよい。彼はまた、剛胆な策略家でもあった。
しかし、シバジを近代的ヒンズー主権国家群からなるマラータ同盟の創設者として評価する説はナンセンスだ。シバジ自身がつくった「国家」はともかくとして、このシバジの「国家」の後継「国家」群の首長達ときたら、国王達と言うよりは、ムガール帝国の徴税請負人としての表の顔と、ムガール帝国の衰退に乗じて出没した夜盗・強盗団の親分としての裏の顔を併せ持った存在だったと見た方がよい。
外来イスラム勢力による300年にのぼる専制政治の下で差別され、圧政にあえいでいたヒンズー教徒をシバジが解放し、ヒンズー教徒の負け犬根性を解消し、彼らに自信と信教の自由を付与したというのもウソだ。
シバジはイスラム教徒を自分の軍隊で平気で雇ったし、イスラム系の首長と同盟すら組んだ。血を分けたヒンズー系の首長と戦うことも躊躇しなかった。そもそも、イスラム勢力によってヒンズー教徒が差別され、弾圧されていたというのも必ずしも正しくない。少なくとも南部のイスラム首長国(特にシーア系)の多くでは差別も弾圧もなかった。
だから、アウラングゼーブとシバジの抗争は、権力と富をめぐる世俗的な争い以外の何者でもなかった。その証拠に、この抗争の過程で、形勢が自分に不利に傾くと、シバジは恭順の姿勢を示してアウラングゼーブからムガール軍5000名の長に「任命」されたり、形勢がやや回復した後もアウラングゼーブにRaj(国王)の称号付与を請願して受理されたりしたことがある。
結局のところ、BJPの政治的思惑が、シバジをヒンズー主義の旗手に祭り上げてしまったということだ。
(以上、http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/Mughals/Shivhistory.html及びhttp://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/Mughals/Shivaji.html(3月20日アクセス)による。)

レーンがこのような通説によって本を書いただけであっても、外国人の手になるシバジの「伝記」本の出版は初めてではないかと思われるので、騒動になった可能性がありますが、火に油を注いだのは、シバジの出生をめぐるレーンの不用意な記述です。
レーンが、シバジは不在がちであった父親の領地を預かる父親の部下と母親とが密通して生まれた私生児だという話を、マハラシュトラ州で流布するうわさ話として紹介したことが、インドの人々を激怒させたのです。
(以上、http://66.102.7.104/search?q=cache:CECaYx4hlr8J:www1.timesofindia.indiatimes.com/articleshow/421285.cms+Shivaji&hl=ja&ie=UTF-8(3月20日アクセス)による。)

(続く)