太田述正コラム#7500(2015.2.21)
<挫折した恋の効用(その5)>(2015.6.8公開)
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<参考:ドンキホーテも挫折した恋の産物?>
 「ドンキホーテの性格は、知られているように、諸恋愛物語(romances)を読み過ぎたため、今や、完全にフィクションの恋愛世界に住んでいる、というものだ。
 彼が愛したダルシニア(Dulcinea)は、実際には魅力のない豚飼い女だった。
 彼が対峙する全ての敵は、彼の想像上の産物だ。
 にもかかわらず、彼らは彼を打ち負かすことができない。
 一体、ドンキホーテのどこが英雄的でどこが称賛されるべきなのだろうか。
 キリストのように、彼は愛/恋(love)が擬人化したもの(personification)なのだ。
 彼は、世界が、どれだけ彼の諸信条を打ち負かそうと懸命に試みても、信じることを止めない。・・・
 <こうして、>ドンキホーテは、神話的領域まで上昇して行った。
 愛/恋の勝利を執拗に主張し続けて・・。」
http://www.theguardian.com/books/2015/feb/13/why-you-cant-have-love-without-lies(2月14日アクセス)
 ここでも、このコラムの筆者が’love’の愛と恋の両義性に無頓着なことに困ってしまう・・やむなく、「愛/恋」と訳した・・が、ドンキホーテを恋の挫折者とするこの解釈が妥当であるとすると、作者のセルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra。1547~1616年)自身もそうであったのではないか、と想像したくなるというものだ。
 しかし、とんでもないことに、日本語、英語の両ウィキペディアには、セルバンテスの愛人/妻の話が(子供の話も含め)全く出てこない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Miguel_de_Cervantes
 ネット上で、唯一遭遇したのが次の記述だ。
 「セルバンテスは、〇〇と1584年に結婚した。
 このカップルは、セルバンテスの死まで結婚生活を続けた。
 彼らの間には子供がいなかったが、セルバンテスは、以前の●●との関係から、一人の娘をなしていた。」
http://www.biography.com/people/miguel-de-cervantes-9242997#personal-life
 なんとなく、挫折した恋のにおいはしてくるのだが・・。
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 私は、『饗宴(Symposium)』において、プラトンが、ソクラテスの口を借りて提示したイデア論は、この本を、高2の時に初めて邦訳で読んだ(読まされた)時(コラム#814、3417))、これこそ、プラトンならぬソクラテス自身の哲学観の核心であろう、と直感して現在に至っています。
 愛とイデアについて、『饗宴』でソクラテスが語っていることの要約は以下の通りです。
 「愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ愛には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。愛がもとめるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の愛である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4
 このイデアなるものについては、プラトンの中期のソクラテス対話編群を踏まえ、一般に次のように解されています。
 「イデアと<は>・・・、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」<であり、>・・・幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2
 つまり、イデアとは、物事の本質であり、それは幾何学的な美しさを帯びている、ということです。
 ここで注意すべきは、イデアが「美しい」からといって、イデアを追求するのが芸術家だけの営みであるはずがない、という点です。
 いずれにせよ、この、イデアの追求は容易なことではないのであって、能力と努力が必須であるだけでなく、イデア追求への強い欲求が不可欠なのであり、この強い欲求を与えるのが、充足されない恋の経験を糧とした恋の昇華である、とソクラテスは主張した、と当時私は受け止めた次第です。
 さて、それからずっと後で、結婚してからしばらく経った頃、私は、ソクラテスの「糧」が一体何であったのか、がようやく分かった(ような気になった)のです。
 『饗宴』の中に、ソクラテスが、妻のクサンティッペについて、「存在する全ての女性達の中で、最もうまくやっていくのがむつかしい」人物であるとしつつ、彼女と別れないのは、「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」と述べた、というくだりがあるのですが、ここでソクラテスは、自分がどうしてあくなきイデアの追求者、すなわち、哲学者になったかを語っていたのであろう、と。
 要するに、ソクラテスは、40歳は年下であったと思われるクサンティッペと恋に落ち入り、結婚し、3人の子までなした
http://en.wikipedia.org/wiki/Xanthippe
のだけれど、彼女への恋が肉親への愛に変わることなく冷めてしまった・・ついに肉親たりえなかった彼女との決別に未練がなかったからこそ、彼は、脱獄させようとする友人達の懇願を振り切り、毒を飲む形で刑死することを選んだ、と私は解しています・・ものの、さすがに離婚するには忍びず、はたまた、浮気をするのもはばかられる、というわけで、彼は恋に挫折した思いを引きずりつつ、恋を求める感情をイデアの追求へと昇華せざるをえなかった、と解すべきことに私は気付いたのです。(注10)
 (注10)クサンティッペに関する日本語のウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%9A
はクサンティッペ悪妻説に近いトーンであるのに対し、英語のウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Xanthippe
(前掲)の方は、クサンティッペ良妻説に近いトーンであるところ、私は前者に軍配を挙げたい。
 (但し、前者の出来は極めて悪い。前者が、「プラトンの著作『パイドン』の中<に>、「クサンティッペは妻としても母としても何ら貢献をしなかった」と<ある。>」としているのは、英語ウィキペディアの’Plato’s portrayal of Xanthippe in the Phaedo suggests that she was nothing more than a devoted wife and mother’、の誤訳であり、「パイドンのなかでのプラトンによるクサンティッペについての描写からすると、彼女は献身的な妻であり母であるに過ぎない」と訳さなければならなかった。
 そんなことが起こったのは、件の箇所の執筆者の英語力のなさに加えて、彼が、実際に『パイドン』を読んでいないからだろう。
 私は、『饗宴』に引き続き、プラトンがソクラテスの最期を描いた『パイドン(Phaedo)』(コラム#1660、3417、4093)を邦語訳ならぬ英語訳で読んだ(読まされた)(コラム#3417)わけだが、ウン十年ぶりに、パイドンが収録されているところの、当時の、ペンギン社(Pengin)文庫版の’The Last Days of Socrates’を引っ張り出して、クサンティッペについての記述(PP102)を読んで念のために確認した。)
(続く)