太田述正コラム#0314(2004.4.9)
<イラクの現状について>

1 イラク情勢に「変化」なし

 私は、イラクについて、これまで(昨年11月21日付けのコラム#190や2月3日付けのコラム#248等で)申し上げてきた情勢認識を変更する必要は認めていません。
 むしろ、事態は米国を中心とするイラク占領当局に有利に推移している、と見るべきでしょう。
 何を寝ぼけたことを言っているのだ、と思われるかもしれませんね。
 それはこういうことです。
 スンニトライアングルを中心とするスンニ派のゲリラ活動もアルカーイダ系のテロ活動も共に占領当局の軍隊相手のものは次第に押さえ込まれ、テロ活動は占領当局のソフトターゲットやイラク国外のソフトターゲットに向かわざるをえなくなっていたわけですが、その後アルカーイダ系は、あろうことか、イラク内のクルド人やシーア派の一般市民をターゲットにテロ活動を開始したのはご存じのことと思います。
 この結果、穏健派のシスタニ師(Grand Ayatollah Ali al-Sistani)が主張していた、6月末の主権移譲前に総選挙を行い、その結果選ばれた議員をベースに暫定政権をつくる、という構想も、選挙の際の治安確保が覚束ない、ということから不可能になっただけでなく、米国が主張していた、地方議会は直接選挙、そして選ばれた地方議会議員による選挙で暫定政権をつくる、という構想すら地方議会の選挙の際の治安確保への懸念から不可能となり、占領当局が一方的に指名したイラク暫定統治機構(CPA)がそのまま、当分の間、続くであろうことは必至となりました。
 ということは、主権移譲は事実上有名無実になる、ということです。
 米国は一旦、イラクの早急な民主主義化は断念し、法の支配の確立だけで満足することにして6月末という早期の時点での主権の委譲を決定したのでしたが、これはイラクの内戦の危険もはらむ方策であった(コラム#190)ところ、ここに来て、民主化と内戦の回避に向けて、米国に貴重な時間が与えられることになったのです。
 (以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1176483,00.html(3月24日アクセス)を参考にした。)
 イラク国民の6割を占めるシーア派は、内部に深刻な対立の契機をはらみつつも、総選挙の早期実施によるイラクの権力の掌握をねらっていたのに、当面その可能性がなくなったことに焦燥感にかられたサドル師(Cleric Muqtader Sadr)を中心としたシーア派の急進派は、占領当局による急進派の機関紙の発行禁止をとらえて、武装蜂起を開始しました。
 これに対抗するようにスンニ派ゲリラ勢力の方も先般、ファルージャで米国の民間人四名(民間人と言っても、警備会社職員)を殺害し、その遺体を損壊して辱めました(注)。

 (注)シーア派の武装蜂起は第一次世界大戦後の英国占領下での1920年のシーア派武装蜂起を思い起こさせる。この結果シーア派は英国に弾圧され、少数派のスンニ派によるイラク壟断を許すはめになった(http://www.csmonitor.com/2004/0311/p01s03-woiq.html。3月11日アクセス)。失敗の歴史から学ばないシーア派の急進派には哀れみを禁じ得ない。
    また、米国人殺害と遺体の損壊は、1958年のイラク革命の際の国王殺害と遺体損壊を彷彿とさせる。当時エジプトにいた私は、1952年のエジプト革命の時、国王を丁重に亡命させたことを知っていただけに、イラク人の残忍さに強いショックを受けた記憶がある(http://homepage2.nifty.com/hashim/whistory/iraq02.htm(4月9日アクセス)参照)。

 そしてこれを待ちかまえていたかのように、占領当局は、サドル師の逮捕とシーア派及びスンニ派武装勢力の武装解除に向けて、全面攻勢(Operation Resolute Sword)をかけ、現在に至っています。
 このように余りにも、事態が米国にとって都合の良い推移をたどっているため、英ガーディアンでさえ、田中宇氏ばりの「これは米国による陰謀だ」的論説を掲載した(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1186565,00.html。4月6日アクセス)ほどです。

2 日本がうろたえるのは禁物

 以上を踏まえれば、自衛隊の基地が迫撃砲で攻撃され、日本人三名が拉致されたからといって、日本がうろたえるのは禁物です。
 いくらサマワが安全な場所だと言っても、迫撃砲やロケット発射装置には個人が携帯できるものがあり、これらを携帯したゲリラやテロリストが密かに自衛隊基地周辺に潜入することが可能であること、かつまた、広いイラク国内でゲリラやテロリストがシビリアンである日本人を殺害したり拉致することが大いにあり得ること、(日本人外交官二名の殺害事件を引き合いに出すまでもなく、)はどちらも前から分かっていたことだからです。
遺憾なのは、今回拉致された三人が、いずれも昨年のイラク戦争直前以来の外務省による「退避勧告」(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040408ig90.htm。4月9日アクセス)を無視してイラクに赴き、日本政府に大変な迷惑をかけることになってしまったことです。
フリージャーナリストの一人はともかく、人道支援目的を標榜していた二人に対して、功名心のために人道支援をするななんてもってのほかだ、とどうして誰かが言って聞かせなかったのでしょうか。
そもそもイラクには人道問題など存在しない、と言っても過言ではありません。人道支援を真に待ちわびている国や地域は、アフリカの国々を含め、世界にいくらでもある(http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/04/08/2003135850。4月9日アクセス)のですから、あえてイラクになど赴く必要など全くなかったのです。
それはともかく、この事件を通して、諜報機関を持たないが故に、今回も全く拉致犯人に関する独自情報を入手できないず、はたまた自衛隊に日本人警護、救出任務が付与されていないが故に仮に犯人情報が得られたとしても、何もできない、という日本のあわれな姿が改めて浮き彫りになりましたね。

<読者>
東京大学の学部を廃止し、大学院大学にすべきである。
日本においては東京大学が頂点であり、全国の進学校が東京大学を目指していることは変わっていない。
かつては、貧乏人や地方出身者でも勉強して東京大学に合格すれば社会的上昇を果たせるという意味で、東京大学の学部入試は日本の階層化と東京一極集中に対するある程度の歯止めであった。
しかし、近年の東京大学学部入学者の内訳を見ると、中高一貫私立校出身者・関東地方出身者がきわめて多い。
新入生の親の所得はきわめて高く、社会の階層化がそのまま現れているものと思われる。
一方で、大学院重点化により、大学教員の負担が増えている。「学部教育はしたくない」が教員の本音であろう。
東京大学を大学院大学にすることにより、教員の研究環境をよくすることができる。同時に、地方の高校生が地元の旧帝大を目指すようになり、東京一極集中がある程度緩和され、また中高一貫私立校に対する県立高校の地位が相対的に上昇することで、所得が低い家庭の生徒が相対的に有利になる。
ついでに、官僚養成機関として、「国立政治行政大学院(National Postgraduate Institute of Government and Administration)」を設置すればよい。
どう思われますか?

<太田>
東大は、学術論文の引用回数による世界の大学や研究所のランキングで、物理学が三年連続の世界一になり、総合ランキングでも世界13位です。人文社会系には日本語の壁があることを考慮し、かつ東大に次いでは京大が30位だというのですから、東大は文字通り日本のセンターオブエクセレンシーとして世界に誇るべき存在だと言えるのかもしれません(http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20040405it12.htm。4月5日アクセス)。
私自身は、センターオブエクセレンシーだろうが何だろうが、高等研究教育機関にとって、学部を持っていることがどうしてハンデになるのか理解できません。なぜなら、次の世代の研究者を啓発し、養成するためには、最先端の研究成果に触れさせることが不可欠であり、それは少なくとも学部段階からなされなければならない営みだからです。
ですから私は、東大の学部は維持し、むしろ東大の一層の国際化を推進し、世界の優秀な研究者と学生を集めることに努力すべきだと思っています。
なお、かつて東大自身が大学院大学化を打ち出したことがありますが、東大優位が一層高まるとして、よってたかってつぶされてしまったのではなかったですか?
高等研究教育機関の富士山型から八ヶ岳型への移項も地方分権の推進も大賛成ですが、これらは別の方法で追求すべきでしょう。
官僚の養成は全く別の話です。
従来の学部としての東大法学部は、数百人の学生相手の一方的講義形式の授業が基本であり、全く教育機関として体をなしていませんでした。この状況は他大学の法学部でも同じだったのではないかと思います。
ですから、これまでの法学部出身の日本の官僚は、教養学部という短大卒相当で、法学部時代は青春の浪費であったと言っても大げさではなく、それが証拠に、外務省では、つい最近まで、法学部中退歴がもてはやされていたくらいです。
その結果、日本の官僚機構は、潜在能力は高かったかもしれないけれどその能力が開発されていない人材を受け入れ、いたずらに日本の人的資源を浪費して来たと言っても過言ではありません。
この状況が法科大学院制度の導入によってどうなるのかが心配です。
更に水で薄められた法学部の卒業生(中退生?)で法科大学院に行っていない者がもてはやされるようなことになれば、官僚の質は更に低下することは必至だからです。
私は、法学部卒が数の上でも「質」の点でも官僚の中の官僚を構成してきた過去と訣別しなければならない、と考えています。
そもそも、官僚に要求される資質や学問的背景は多様であり、特定の学問的背景を持った者が主流を構成するようなことは避けるべきでしょう。
かかる見地から、私はフランス流の官僚養成学校設立を提唱される投稿子のご見解には違和感を覚えます。
官僚は、あらゆる学問分野から、かつまた学部卒と大学院卒のどちらに偏ることなく、採用することが望ましい、と思うのです。