太田述正コラム#0315(2004.4.10)
<新悪の枢軸:インド篇(その6)>

 (本篇は、形式的にはコラム#288の続きですが、実質的にはコラム#286の続きです。)

4 民主主義はインドの長所か

 (1)アマルティア・センの指摘
 統一後の中国は一党独裁制、他方独立後のインドは民主主義を採択したため、中国では飢饉(注1)が発生したがインドでは飢饉(注2)がなくなった、と指摘したのがノーベル経済学賞を非欧米人で初めて受賞したインド人アマルティア・センです(注3)。

 (注1)例えば、いわゆる大躍進政策が引き起こした1959??61年の大飢饉では、1000??4000万人の餓死者が出たと言われている(http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/asia_pac/02/china_party_congress/china_ruling_party/key_people_events/html/great_leap_forward.stm。4月10日アクセス)
 (注2)例えば、独立前の第二次世界大戦中の1943年のベンガル大飢饉では、300万人の餓死者が出た。その原因は不作ではなく、食糧価格の高騰と農民の賃金の下落だった。こういったケースでは政府(当時は植民地政府)が公共事業を行い、貧しい農民に現金収入を与えることで飢饉を回避できたはずだ、とセンは言う。
 (注3)センが、ノーベル経済学賞を授与されたのは、この指摘とは全く関係のない、彼の厚生経済学上の業績に対してであったことに注意。センの指摘の詳細については、著書「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」(集英社新書2002年)参照。

 センに言わせると、民主主義の下では政府は、選挙で野党と競い合わなければならず、かつ世論の批判に晒されていることから、飢饉等の災害を回避する方策を講じる強いインセンティブを持つ、というのです。
 しかしセンは、肝心のインドで、「飢饉」が今でも見られるではないか、という批判を受けています。
 インドの10億の人々中約3億5000万人もが飢餓状態にあり、インドの子供達の半数は栄養失調状態であって、栄養失調に係る死者が年間400万人近くにも上っている、というのです。
 インド政府が余剰穀物を5000万トンも抱えているにもかかわらず・・。
 センは、民主主義の下では何万、何10万人規模で餓死者が出るような本来の意味での飢饉はなくなるけれど、栄養失調まで根絶できるとは限らない、と防戦に大わらわです。
 確かに、インドでは栄養失調に係る死こそ日常茶飯事ですが、本来の意味での飢饉は起こっていません。
 ではどうして栄養失調が根絶できないのでしょうか?
 インド政府が山のような穀物備蓄を抱えているのは、農業ロビーが穀物を高い価格で政府に買い上げさせてきたからですが、このため穀物価格が高止まり状態となっています。政府は、貧しい人々のために全国に配給所を設けているものの、配給網が弱体であることと腐敗が蔓延していることもあって、栄養失調の根絶までには至っていないのです。しかも、世銀等の批判を受けて、インド政府が貧しい家庭向けの食糧補助金制度を廃止したため、状況が更に悪化した、ということのようです。
 センに対するより根本的な批判はこうです。
インドの民主主義は栄養失調といった食糧問題だけでなく、文盲率の高さといった教育問題、幼児死亡率の高さといった医療問題、等の問題の解決にも成功していません(注4)。センには、民主主義が良い政府をもたらす場合もあれば、独立後のインドや現在のエチオピアのように悪い政府をもたらす場合もあることが分かっていないし、独裁制の下にあっても、現在の中共のように、飢饉はおろか、栄養失調をも根絶できる場合があることが分かっていない、というものです。

(注4)インドの医療費はGDPの1%以下と、世界最低の部類に属する。(米国では6%近い。)インドでは人口3000??5000人ごとに診療所が設けられているが、診療所の半分近くは無人状態であり、農村地帯では大部分の住民がガリガリに痩せて貧血症にかかっており、10人のうち3人は1??2km歩くことも井戸から水を汲み上げることもできないという健康状態にある(http://www.nytimes.com/2004/03/25/international/asia/25INDI.html。3月25日アクセス)。

(以上、特に断っていない限り、http://www.nytimes.com/2003/03/01/arts/01HUNG.html(3月1日アクセス)による。)

(2)良い政府と市場経済化こそ鍵
 中共の例からも明らかなように、飢餓(飢饉や栄養失調)の克服の鍵は民主主義化などではなく、良い政府を樹立し、市場経済化を推進することだと言えそうです。
 インドでも1990年代に入って市場経済化が進みましたが、BJP政権の人気取り政策ともあいまって、インドの栄養失調問題にも最近ようやく好転の兆しが出てきました。
 BJP政権は、自らが推進した規制緩和に伴い、農民が端境期に容易にローンを組めるようになり、農産品を扱う商品取引所が三つも生まれ、更に、農民が政府を介さずに農産品を直接売ることができるようになったことや、農村の道路網の整備に力を入れてきたおかげだ、とPRに努めています。
 もっとも野党の国民会議派等にかかると、好転の兆しが出てきたのは、三年続いた不作の後に昨年、良いモンスーンによって豊作になっただけのことだ、ということになります。
 そもそも、1960年代のいわゆる緑の革命によって、棚ぼた的にインドは食糧を十分自給自足できるようになっているのであって、飢餓克服のために残された課題は、穀物買い上げ等のための農業補助金を大幅に削減すること等規制緩和の徹底、及び農地改革を実施することで7割ものインド農家が3エーカー以下の農地しか持っていない状況、並びに大規模な灌漑施設建設を行うことでインドの可耕地の4割しか灌漑されていないという状況、を抜本的に改めること、でしょう。
(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A18966-2004Mar23.html(3月24日アクセス)による。)
しかし、これまでインドについて申し上げてきたことを踏まえれば、期待するだけ野暮という気がしませんか。

(完)