太田述正コラム#7612(2015.4.18)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その13)>(2015.8.3公開)
 「インパール作戦が始まる前、日本軍は陽動作戦を行っていた。ベンガル湾に面したビルマ南西部アキャブ方面から印度を脅かす印象を英印軍に与え、北方インパール作戦を秘匿しようというもので、「第二次アキャブ作戦」<(注34)>と呼ばれた。・・・
 (注34)1944年2月5日~23日。戦死傷:日本軍5335人、英印軍3506人。「<抗命事件を含め、>この作戦と同様の事態が、本戦場のインパールではより大規模に展開され<ることとなる。>・・・<抗命した>棚橋連隊長は<後に>自決した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%96%E4%BD%9C%E6%88%A6
 この作戦の指揮を執った花谷正(1894~1957年)中将を糾弾するウィキペディアは一読に値する。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%B0%B7%E6%AD%A3
 この時期、すでにアキャブ一帯は英印軍の勢力が浸透していた。
 光機関アキャブ出張所がこれに対抗した。中野学校出身者の・・・大尉に率いられ、<2人の大川塾生のほか、>日本山妙法寺の僧侶たちが<おり、>・・・チッタゴン(現バングラデシュ領)まで工作員を派遣して情報収集を行ったほか、周辺の宣撫工作も手掛けたという。・・・
 <しかし、>第二次アキャブ作戦は・・・1944年5月、日本軍の敗勢に終わった。」(233~234)
⇒インパール作戦ではなく、その前哨戦ないし支作戦であった第二次アキャブ作戦をあえて紹介してみました。(太田)
 「<戦後、大川塾生は、多くが連合国の尋問を受けたが、>「大川塾、軍協力商社大南公司、特務機関の経歴を持つ私が、光機関で塹壕掘りをやった、といっても信じてくれません。・・・」・・・「日本軍では大学の先生でも一等兵なら馬のお尻を洗っている。そういうことを彼らは信じないんですね。・・・」・・・〇〇は大使館の情報部長・・・から正式な職員になるよう勧められたものの、徴兵によって道を阻まれていた。彼が手記中で「軍は外務省の再三の要請にもかかわらず私達を現地招集した」と述べるように、知性や能力を顧みないで一律に兵隊とした軍の姿勢は、敵軍からも皮肉られる始末だった。」(254~256)
⇒帝国陸軍の徴兵のやり方のバカ平等さは、一切の情実を介在させないところの、日本の学校入試と双璧ですね。
 前者については、大組織における年功序列制や、株式会社における役員とヒラ社員の報酬格差の小ささ、等、の背後にあるものと同じ考え方に立脚しており、人間の能力は人間(じんかん)的に発揮されるものであるので、個々の人間ごとの能力・・試験の成績や経歴や出自の差・・を余り問題にすべきではない、という「思想」から来ているわけです。(太田)
 「やがて8月15日の敗戦<となった。>・・・
 大川は9月2日、降伏文書調印のラジオ放送を聴き、その翌日には「今日よりアメリカの属国」とまで記して屈辱を露わにした。・・・
⇒大川は、日本の属国状況が、占領終了後まで続くであろうことを予感していた、と思いたい気になります。(太田)
 <しばらく経って、ある大川塾生>が贈られた揮毫は、大川自身が敬慕していた幕末の熊本藩士で思想家、横井小楠の詩である。・・・平生ノ心事何処ニ在ルヲ知ル・・・寄セテ在リ芙蓉第一峰・・・とある。・・・
 <この塾生は、>何でも日本一に心がけを置けということです<、と言った>。・・・
⇒私と同じ横井小楠ファンとは、途端に大川が身近に感じられます。
 なお、この漢詩については、塾生の解釈とは異なり、私は、素晴らしい日本という国の国民として恥ずかしくないように自らを処せ、ということだと思います。(太田)
 大川塾のあり方<は、>・・・日本<は、>・・・盟主でも指導者でもない。友人として、正直と親切を尽くす。アジアに行って人と交わり、同化し、埋もれる。<というものだった。これは、>・・・日本が頂点に立つ・・・大東亜共栄圏の思想<とは異なるものだ。>」(261、278、286)
⇒大川は、対赤露抑止の手段として、というよりは、目的として、アジア解放を唱え、そのために手足となって働く日本人群を養成した、と私は見ているわけですが、人間主義者であったと目される大川が、人間主義教育を彼らに対して施してくれたおかげで、日本政府によって、(インパール作戦を除いて、)手段として行われたアジア解放の試みが、結果として、被解放者たる東南/南アジアの人々から、戦後、基本的に感謝されることになった、と言えそうです。(太田)
(完)