太田述正コラム#7708(2015.6.5)
<キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その4)>(2015.9.20公開)
「アウグスティヌスの、原罪の教義がその最終的な極端な形を取った頃には、没落が運命づけられていた(doomed)ところの、ドナトゥス派との議論は概ね終わっていた。
 <彼の>初期の書き物群の中では、彼は自由意志の観念にしがみついていたのだが、彼の人生の後半の数十年においては、・・・<原罪の教義を打ち出した。>
 すなわち、<営為により>救われるべく選ばれるに至ったように見えた者達は、実は<、原罪を負っている以上>、神によって救済されるべく先決されていた(predestined)、と言い出したのだ。
 アウグスティヌスにとっては、これは、逆説的ではあるが、希望の源泉だった。
 というのも、この堕落した(fallen)世界で何が起ころうと、神は救われるべき者達を予め取り分けてくださっているからだ。
 しかし、これは、洗礼を受けた<ところの、キリスト教の>信者達にこそ慰めを与えたけれど、それ以外の「確実に呪われている(damned)ところの[人々の]大群」にとっては、たまったものではなかった(came at a considerable cost to)。
 アウグスティヌスが生まれた時点では、ローマ帝国は再生された繁栄を享受していたけれど、彼が430年に亡くなった時点では、ヴァンダル族が、かれのヒッポ(Hippo)の自宅を攻囲していた。
 <ヴァンダル族のような>野蛮人達の次第に増大する力は、アウグスティヌスの次第に暗くなって行った人間の諸状況についての見通し(prognosis)と呼応していたけれど、それは、彼らの諸乱暴狼藉にだけに帰せしめるべきではない。
 彼による、人間の本性に関する最も侘しい(forlorn)諸描写は、ローマの苦行者達(ascetic)<(注4)>が、410年のローマ略奪(sack of Rome)<(注5)>の後に、北アフリカに避難してきた時に始まったところの、<彼らとの>物凄い公然たる議論の間に形成されたものだ。
 (注4)シニシズム(Cynicism=キュニコス派)とも。「ソクラテスの弟子であるアンティステネス[(BC444~365年)]を祖とするヘレニズム期の古代ギリシアの哲学の一派・・・ヘレニズム期の他の学派同様、倫理哲学にその特色をもつ。禁欲を重視するところではストア派とも通じるが、より実践を重んじ認識論的展開を見せなかった。 無為自然を理想として、現実社会に対しては諦めた態度を取っており、古典期の社会(ポリス)参加を重視する倫理思想と大きく異なる。 シノペのディオゲネスが有名である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%B4%BE
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9 ([]内)
 「<彼らは、>人生の目的は、徳のうちに、自然と調和して生きることにあるとした。理性ある動物達として、人々は、厳しい訓練、及び、富、権力、性、名声に対する在来的な欲望を全て拒絶し、人間達にとって自然な形態で生活すること、によって幸福を得ることができる、と。
 すなわち、彼らは、あらゆる所有物群なしの簡素な生活を送るべきである、とした。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Cynicism_(philosophy)
 (注5)「410年8月・・・に起こった<ところの、>アラリック1世率いる西ゴート族が西ローマ帝国のローマを侵攻・陥落させ市内を略奪した事件を指す。・・・西ゴートの軍勢は・・・3日に渡って市内を略奪し<、>・・・多くの公共施設が略奪にあい、・・・動かすことのできる価値あるもの<が>市内全域から持ち去られた・・・住民の被害も大きく、皇帝の妹・・・を含め多くが捕虜となり、その多くは奴隷として売り飛ばされたり、強姦・虐殺された。・・・難を逃れた住民は・・・アフリカ属州に落ち延びた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%95%A5%E5%A5%AA_(410%E5%B9%B4)
⇒キュニコス派(苦行者達)は、仏教徒達のうちの一部以外で、(釈迦の思想の直接的影響を受けずして、)最も釈迦の思想に接近した人々ではないでしょうか。 
 「ストア主義は<キュニコス>派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE
等、そのストア派との関係については、判断を留保しておきます。(太田)
 <この>文化戦争の溶鉱炉の中で、アウグスティヌスの最も大事にした教義が精緻化され練られたのであり、それは、やがて法王と皇帝によってお墨付きを得ることとなった。」(F)
 「「原罪」という言葉の人気は、5世紀のアウグスティヌスに帰すことができる。
 それは、当時のキリスト教徒達によって問われた5つの主要な質問群・・悪はどこから来たのか、どうして全ての人間は救済のためにキリストの恩寵(grace)を必要とするのか、正義の神に対する信仰がどうしてかくも多くの人々がキリストへのアクセスを欠いていることと両立するのだろうか、どうして人間達はこうも失敗ばかりする(stuffed up)のだろうか、どうして幼児は洗礼されるのか、・・に対する単一の解答を提供したことから画期的だった。」(H)
 (2)その後のカトリシズム
 ア 辺獄
 「<原罪という>この身の毛がよだつ教義をより口当たりの良いものにすることに資するべく、カトリック教会は、やがて、辺獄(limbo(リンボ))<(注6)>の観念を公にした。
 それは、未受洗の幼児達が、彼らが天国における神の顕在の至福を味わう資格がないが故に、面白味のない(bland)満足といった趣の中で過ごす、死後の領域だった。
 (注6)辺獄は、「イエス・キリストが死後復活までの間にとどまった場所(父祖の辺獄)、および・・・旧約聖書の時代、すなわちイエス・キリストの死と復活、昇天によって天国の門が開かれる以前に、原罪を持ったまま小さな罪を犯した可能性もあるが神との交わりのうちに死んだ者<が行く場所(父祖の辺獄)>・・・<或いは、>洗礼を受ける前に死亡した幼児が行く場所(幼児の辺獄)と考えられてきた。辺獄は、聖書にはもちろんカトリック教会のカテキズムにも明確に書かれていないため、カトリック教会の公式教義ではなく「神学上の考えられる仮説」と<考えられてきた。>・・・
 キリスト教の他の教派(正教会・プロテスタントなど)においては、「父祖の辺獄」に相当する陰府(よみ、黄泉、シェオル)の概念は一部にあるが、カトリックとは解釈が異なる部分があり、「辺獄」「リンボ」という表現もしない。また「幼児の辺獄」のような概念は存在しない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BA%E7%8D%84
 しかしながら、辺獄は、1992年に廃止(rescind)された<(注7)>。」(A)
 (注7)1992年ならぬ、「2007年・・・、教皇庁の諮問機関である国際神学協会は、・・・「未洗礼のまま死亡した幼児の救済の可能性」というタイトルの文書を提出し・・・一部のメディアはこれを「教皇、辺獄を閉ざす(Pope Closes Limbo)」などと報じたが、これは事実に即していない。」(上掲)
 イ 免罪符
 中世の<カトリック>教会が進展(spread)するにつれ、洗礼だけでは救済に不十分であるとの観念は、悪名高き免罪符群(indulgences)<(注8)>なる教義によって支えられつつ、反復可能な秘跡群(sacraments)である告白<(注9)>、及び、聖餐式(communion)<(注10)>でもって拡大(augment)されることになった。
 (注8)贖宥(しょくゆう)状とも。「<カトリック>教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省・・・(痛悔)<し>・・・、次に司祭に罪を告白してゆるしを得・・・(告白)・・・、最後に罪のゆるしに見合った償いをする・・・(償い)・・・。・・・ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてくる。これが「贖宥」である。・・・イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。・・・その後・・・様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われてい<くことになっ>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6
 (注9)告解とも。「カトリック教会においては、洗礼後に犯した自罪を聖職者への告白を通して、その罪における神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。・・・大罪を犯した場合また年に一度行うべきものとされている。・・・カトリック教会および正教会では、教義上<秘跡>と捉えられているが、聖公会では聖奠的諸式とされる。プロテスタントでは<秘跡>とは看做されていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%8A%E8%A7%A3
 サクラメント(sacrament)は、「キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。ただし現在のキリスト教においては教派によってその指し示す内容、さらには日本語訳として用いられる表現も異なっている。例えば、カトリック教会では秘跡、聖公会では聖奠、プロテスタント教会では礼典、正教会では機密と呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
 (注10)「主の晩餐(聖餐式・ミサ・聖体礼儀)においてキリストの体と血となったパンと葡萄酒に与ること」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3
 「聖餐とはイエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。「エウカリスト」(ユーカリスト)の日本語訳。「聖餐」はおもに西方の教派で使われる訳語だが、カトリック教会では「聖体拝領」、「聖体の秘跡」と呼ばれる。日本の聖公会、プロテスタント教会などでは「聖餐式」とも呼ばれる。正教会における「聖体礼儀」、「聖体機密」「領聖」に相当する。。「主の晩餐」の語はいずれの教派でも使われる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%A4%90
 人は、実際のところ、人生を通じて、<神の>恩寵の状態から退いたり、その状態に入ったりを繰り返すかもしれない。
 その諸儀式を通じて、カトリック教会は、ボイスがそう呼ぶところの、「救済のマイクロマネジメント(micro-management)」を行うことにしたわけだ。」(A)
 ウ 「原罪」の流行と廃れ
 「ボイスが示すように、原罪の歴史には、この教義が強く推進された諸時期と、そのより厳しい諸帰結が水で薄められるか否定されるかする諸時期と、がある。
 水で薄められたのは、<まずは、>キリスト教世界の歴史の初期のことであり、カトリック教会は、キリスト教を異教徒達により魅力的なものにすべく、人々が、自分達の悪い本性を克服するために、或いは、彼らの諸罪に対する処罰をより軽くするために、自分の諸努力で何とかすることができること、を認めた。
 <また、>中世後期に<も、>カトリック教会は、その多くが女性であったところの、人間の腐敗が愛の神と本当に両立可能なのかに疑問を呈した神秘主義者達(mystics)<(注11)>に対して寛容で臨んだ。」(E)
 (注11)「キリスト教神秘主義で強調するのは、主に、人間の霊的変容である。人間の霊的変容とは、・・・人間は「神の似姿に造られている」ので、より完全な人間になる、あるいは人間性をより実現するということである。キリスト教徒にとって、この「人間の潜在性を完全に実現すること」は、イエスにおいて最も完全に果たされており、また他の人においても、イエスとの結びつきを通じて実現される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9
⇒延々と、おどろおどろしく、かつ、ばかばかしい話が続く、という思いでおられる方も少なくないことと推察しますが、もうしばらくご辛抱願います。
 こういった「おどろおどろしく、かつ、ばかばかしい話」の核心たる「原罪」教義が、いかに、その後の欧米諸文明、就中、欧州文明と米文明を毒すことになったかが、ボイスによって解き明かされていくところ、その前段として、それと関連するキリスト教基礎知識を反芻しておく必要があるからです。(太田)
(続く)