太田述正コラム#7726(2015.6.14)
<キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その9)>(2015.9.29公開)
 (6)総括
 「<原罪教義に認めることなく、>大部分の人間は大部分善い、と執拗に主張することは、<大部分の>「我々」と<ごく一部分の>「彼ら」の間に線を引くことを意味する。
 何でも治せると強く思い込んでいる(strongly therapeutic)文化のおかげで、この線の「怪物(monster)」側に確実に残るのは、恐らく、テロリスト達や幼児性愛者達だけだとしても・・。
 そして、我々に共通する人間的らしさ(humanness)が、これらの諸事例における諸要因(causes)の複雑な働き(operation)を理解すること、及び、意味がありかつ人間的な諸解決に到達すること、を妨げる。
 この点で、原罪は、深遠なまでに平等主義的(egalitarian)である<、と受け止めた者も少なくない>。
 <なぜなら、原罪を認めれば、>例外なく、全ての人々は、栄光の(glorious)神の栄光なる諸被造物であると同時に、ひどい欠陥品なのだ(utterly flawed)<ということになる>から<だ>。
 ボイスは、18世紀の一人の貴族の女性による、この受け容れ難い<(原罪)>教義を公然と信奉(espouse)するもう一人への譴責であるところの、「<自分が、>地上を這い回っているひどくみすぼらしい庶民(common wretches)と同じくらい罪深い心を持っていると聞かされることは余りにもひどいわ(monstrous)」、を引用する。
 原罪が<人々の大きさを揃える>水準器(leveler)である<、という受け止め方ができることがお分かりか。>」(D)
 「原罪教義から、自分達がいかに生きるべきか、そして、いかなる種類の社会を形成すべきかについて、異なった、時には正反対の諸結論、を人々は引き出してきた。
 <第一に、上で紹介したところの、>原罪は偉大なる平準器(leveller)だ<、という結論を引き出す人々がいる>。
 <彼らは>、仮に全ての人々が等しく罪人達なのであれば、誰も他者よりも善いと主張することはできないはずだ<、と考える>。
 <というわけで、>プロテスタンティズムの興隆、及び、<そのプロテスタンティズムによる>原罪の生命(life)の新たな(new)租借(lease)、が、人間の平等の信条(belief)と支配者達への不信を奨励した<部分がある>。
⇒このように原罪教義を受け止めた人々が、宗教戦争の荒廃等から、キリスト教に不信を抱き、神を「殺し」、キリスト教の代替物としてでっちあげたのが、私の言う民主主義独裁の諸イデオロギー・・ナショナリズム、共産主義、ファシズム・・であった、ということになりそうです。(太田)
 <第二に、>しかし、原罪の信条は、受動性も奨励する<、という結論を引き出す人々もおり、そのような人々にとっては、原罪の信条が受動性をもたらす>ことがありうる。
 人間が悪であること(badness)は、人間の状況(condition)の真の諸改善が不可能であることを意味する<、というわけだ>。
 それは、罪人達への寛容な態度と人間の諸欠陥(failings)への暢気な(easy-going)態度を奨励することがありうる、ということだ。
 <換言すれば、>もし君が生来的に(naturally)罪深いのであれば、誘惑に屈することに悔む意味がないように見える、ということだ。
⇒このように原罪教義を受け止めた人々は、消費者主義に毒された、無神論的な近代労働者群になった、ということになりそうです。(太田)
 <第三に、>とはいえ、自己規制(self-control)とつつましい生活様式は、ある個人が神によって救済されるべく選ばれていることを示すことができるのかもしれないのであって、そうだとすれば、清教徒的な生活様式が、自分達自身の救済を信じたい者達にとって求められることとなる。」(E)
⇒このように原罪教義を受け止めた人々は、敬虔なプロテスタントたる資本家群になった、ということになりそうです。
 なお、これらは、いずれも、欧州の話であって、イギリスには基本的にあてはまりませんし、米国に関しては、比較的穏健なナショナリズムは見られても、共産主義やファシズムは全くと言っていいほど受け付けませんでしたし、労働者群も敬虔なプロテスタントであり続けました。(太田)
 「<アウグスティヌスの頃から>1500年が経過し<た現在、幸か不幸か>、「私には何か悪い点がある」という観念は、内面化されたようであり、<実際には、もはや、原罪は、欧米において、>我々が何であるかの一部となってしまっている。」(G)
⇒イギリスの場合は、原罪の意味が第一~第三のいずれとも異なっていることは、記述した通りです。(太田)
 「ボイスは、人々がひどい諸行為を行うことができ<るのは確かだし>、人間の歴史は悪だらけ<であることも確か>だ、と述べる。
 しかし、書かれた歴史には、残酷さを描写することに向けてのバイアスもある、と彼は述べる。
 <すなわち、>彼は、以下のように記す。
 「史料源群は、概ね、富や名誉や権力や書記達を備えた者達によって作られた。
 親切、慈悲(compassion)、そして、自己犠牲の「小さな」諸行為・・それらは、その定義からして認められることを求めないけれど、子供達、諸コミュニティ、そして諸文化を生かし続ける・・の諸記録は相対的に少ない。
 誠実な歴史書は、人間達があらゆる事柄群を行い得るように見えることを認め(admit)なければならず、また、原罪の歴史は我々がいかなる存在群であるかではなく我々がいかなる存在群であると考えているのかに関わっていること<・・つまり、事実ではなくイデオロギーであること>を認め(acknowledge)なければならないのだ。」、と。」(B)
⇒ボイスは、原罪教義を利己主義と言いなおした上で、人間は、基本的に利己主義的ではないことから、原罪教義は間違っている、と断じているわけです。(太田)
 「この本は、CS・ルイス(CS Lewis)<(注21)>が、「年代記的衒学趣味(chronological snobbery)」・・我々の諸観念(ideas)は過去のそれらに比してより優れているという概念(notion)と呼んだもの」に対する警告なのだ。(B)
 (注21)本名Clive Staples Lewis。1898~1963年。「アイルランド系のイギリスの学者、小説家、中世文化研究者、キリスト教擁護者、・・・新プラトン主義的な見解<の>・・・信徒伝道者。」オックスフォード大卒、同大研究員を経てケンブリッジ大学教授(中世・ルネッサンス英文学専攻)。「幼少の頃はアイルランド国教会に基づくキリスト教を信仰していた。14歳の時に無神論に転じ<たが>・・・、31歳で同じ聖公会系の<英>国教会の下で再びキリスト教信仰を始めた。・・・米国聖公会では聖人に叙せられ<た。>」『ナルニア国ものがたり』の著者でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9
 彼の、唯一の結婚相手との悲恋を核とした伝記映画に『永遠(とわ)の愛に生きて(Shadowlands)』(1993年)がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E6%84%9B%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6
⇒ボイスは、現在、欧米において広く抱懐されているところの、(キリスト教の、或いはキリスト教抜きの)原罪教義は、中世カトリシズムにおける贖い得る罪なる教義、また、初期キリスト教思想家群中のペラギウスら性善説、更には、古典ギリシャのアリストテレスの中庸倫理説、等、に比してより優れているとは決して言えない、と主張しているわけです。(太田)
(続く)