太田述正コラム#7774(2015.7.8)
<現代日本人かく語りき(続)(その5)>(2015.10.23公開)
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[石原莞爾の評価]
 実のところ、私はそれほど石原を高く評価しているわけではない。
 人間主義的対外政策も対露(赤露)抑止戦略も、当時の目端の利いた日本人の大部分が共有していた考え方であり、そんな日本人であれば、満州に対赤露抑止の最前線たる理想の国を作ることを目論むのはごく自然なことであったからだ。
 しかし、それは、武力を背景にしかなしえず、しかも、宗教的なファナティズムに突き動かされた人物が中心にならなければ実現するのは困難だった。
 その人物が、TPO(1920年代末・満州・関東軍主任参謀)に恵まれたところの、法華信者たる石原であるということに、たまたまあいなった、ということだ。
 こうして、「昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した<石原は、>・・・関東軍による満蒙領有計画を立案<し、>昭和6年(1931年)に・・・満州事変を実行、23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現し<、>・・・建国<された>満州国<に>「王道楽土」、「五族協和」<なる>スローガン<を掲げさせ、>・・・日本及び中国を父母とした独立国<となることを願った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
わけだ。
 実際、これ以降の石原の予測はことごとくはずれるのであって、彼自身も次第に主流から外されて行き、太平洋戦争前には予備役に編入されてしまう。
 予測が外れた点としては、一、日支戦争の勃発と拡大、から始まり、二、それに伴う米国の対日干渉と日米開戦、三、(日本の敗戦に伴うところの、支那と東南アジアの一部の赤化は必然、日本の米属国化も彼にとっては必然に近かった(注3)、ところ、)(日米間の最終戦争どころか、そもそも、)最終戦争的なものの可能性自体のほぼ消滅、が主なところだ。
 (注3)「最晩年、日本国憲法を知った彼は、戦前の自著『最終戦争論』を訂正し、「日本は9条を武器に、一切の武力を放棄し、最終戦争なしで世界を一つにしよう」と述べるに至<った。>」(C:24頁)
 一については、赤露の支那への間接侵略能力を彼が過小評価していたためだし、二については、(これは彼を責めるのはいささか酷だが、)米国というものを彼が全く理解していなかったためだし、三については、彼が(最終戦争を不可能にする究極の兵器たる)核兵器の出現を予想できなかったためだ。
 なお、彼が戦後に新たに行ったところの、軍事力の役割が殆んどなくなるとの予測((注3)参照)もまた、米国を中心とする国際警察力として、軍事力の役割は廃れることなく続き、日本も米国の属国としてその一翼を事実上担うようになったことではずれてしまう。
 それはそれとして、石原の監督の下、満州国で実験的に構築された日本型経済体制が、日本型政治経済体制となって日本の内地に移植され、それが日本において戦前から戦後へと続く高度成長をもたらし、一旦は米国の経済力を脅かすに至り、それと並行して、中共が日本型経済体制を継受して高度成長を実現し、米国の経済力を抜き去ることが必至となったばかりか、その中共が、日本型政治経済体制総体の継受を目指して努力を開始するとともに、日本と支那を中核とする政治経済圏の樹立を目指しているとさえ思われる現在を見たならば、石原が一体いかなる感想を口にするか、ぜひとも彼に聞いてみたいところだ。
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 「東京や広島では何万発もの爆弾が落とされ、十万人を超える死者が出ましたが、京都、島根、石川、山形、長野では爆弾はヒトケタからフタケタ地土、死者も数十人でした。この差は軍需工場の有無が原因でした、京都、島根、石川、山形には軍需工場はなく、長野は小規模な軍需工場のみだったため、空襲の被害も小さかったのです。
 では何故、アメリカは主力軍需工場のある地域を特定できたのでしょうか。・・・
 <米国は、>日本人捕虜への尋問<の際、>・・・名古屋出身の捕虜なら名古屋の軍需工場の場所を尋問され、黙秘すれば、「名古屋全域に爆弾を落とすことになる。多くの非戦闘員が死ぬ」と説得されました。捕虜たちは苦しい煩悶の末、・・・詳細な情報を漏らし<たのです。>・・・
 空襲の被害を減らした<のは>日本人捕虜の勇気<だったのです。>・・・」
⇒このくだりについては、保阪に激しい怒りを覚えざるをえません。
 彼は、事実上、米国の「人道性」を称賛しているに等しいわけですが、話を名古屋だけに絞りますが、名古屋出身の日本人捕虜の「煩悶」と「勇気」を無にし、米国は、「1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃<を>始<めた結果、>・・・<名古屋での空襲の>被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及<んだ>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
のですからね。
 「<1945年>5月14日<の空襲の時に>・・・撃墜されたB-29の搭乗員[27名]は、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)の戦争犯罪で斬首死刑が執行されて<おり、>」(上掲)死刑を命じた第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官の岡田資中将は、戦後B級戦犯として処刑されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%B3%87 ([]内も)
 米国は日本人捕虜達を騙した上、国際法違反の無差別爆撃を行い、当然の処刑を命じた岡田に対し、リンチ殺人を行った、ということです。
 吉田ドクトリンに毒されたどころではない、日本に在住しながら宗主国米国に過剰適応した、奴隷根性の「識者」が、いまだに蔓延っている日本の現状に暗澹たる気分になりました。
 下掲へのコメントでこの項を終えたいと思います。
 「確か昭和25年だったと思うが、全国の理工系の研究者を対象にしたアンケート調査で、研究の自由が最も豊かに感じられたのはいつか、という設問に、70パーセント近くの人が戦時中と答えていたのが、今も忘れられない。
 戦後の極貧の時代、研究資金の不足の深刻さへの反動でもあったのだろうが、興味ある結果であった。」(村上陽一郎「科学・技術の戦後70年」(C:29頁)
 村上は、やたら言い訳めいた言辞を差し挟んでいますが、一事が万事、戦前のみならず、戦中も、基本的には、明るい、楽しい時代であった、ということを、我々は改めて銘記すべきでしょう。(太田)
(完)