太田述正コラム#7790(2015.7.16)
<米独立革命の罪(その2)>(2015.10.31公開)
 (2)「革命」の伝播
 「・・・普遍的諸人権のための国際的闘争群は、個々の国の歴史群にはうまく収まらない。
 そもそも、どうして、歴史家達は、この革命を分割して、自己完結的な(self-contained)個々の国の物語群にしてしまうのだろう、と私は不思議に思った。
 今では、私は、米建国の父達の諸物語に我々は遡らなければならない、と、事実、考えている。
 これらの、国境を超えた者達の何人かはどんな人々だったのだろうか。
 トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)のお隣さんの一人がその一人だった。
 <例えば、イタリアの>トスカーナ地方(Tuscan)の商人で米独立革命の大義(cause)を自分自身のものとして情熱的に採用したところの、フィリッポ・マッゼイ(Filippo Mazzei)<(注2)>がそうだが、彼は、後にポーランド王に革命パリにおける使節として奉仕した。
 (注2)1730~1816年。イタリア人医師でジェファーソンの親友の一人で、米独立革命の際、ヴァージニアが武器を仕入れるのに携わった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Mazzei
 
 或いは、アンナ・ファルコンブリッジ(Anna Falconbridge)<(注3)>がそうだ。
 (注3)Anna Maria Falconbridge。1769~?年。2人の結婚相手との縁でのアフリカにおける諸経験をしたため、それを結果として出版し、更にその結果として奴隷廃止運動に貢献した。ヴァージン諸島で生涯を閉じる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anna_Maria_Falconbridge
 彼女は、その日誌で、北米英領植民地(America)出身の黒人の王統派達(loyalists)のシエラレオネへの移住について、自分自身の<備忘の>ために、「生煮えの(premature)、軽はずみな(hare-brained)、たちの悪い(ill-digested)試み(scheme)」である、と描写している。
 コネチカットの詩人転じて起業家のジョエル・バーロー(Joel Barlow)<(注4)>は、ロンドンの急進派達に代わって、フランス兵士達に諸靴を配給し、ベルベル人海賊達と人質達の解放について交渉した。
 (注4)1754~1812年。米国の詩人、外交官、政治家。フランス革命を支援し、熱烈なジェファーソン主義であり続けた。ダートマスを経てエール(どちらも当時は単科大学)卒。弁護士でもあった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Joel_Barlow
 或いは、奴隷制に関する、七面倒で(laborious)ごまかしに満ちた(equivocating)フランス流諸議論に苛立ち、サン=ドマングに舞い戻って、「人種いかんに関わらず」、全ての人々のための諸権利を要求した蜂起の指導者となった、ヴィンセント・オゲ(Vincent Oge)<(注5)>もそうだ。
 (注5)1755?~91年。父がフランス白人で母が混血の、恐らくは1/4アフリカ系、3/4フランス系でサン=ドマング生まれ。彼が1790年10~12月に起こした蜂起が1791年8月に始まるハイチ革命の誘い水になった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vincent_Og%C3%A9
 サン=ドマング(Saint-Domingue)は、カリブ海のイスパニョーラ島の西半分にフランスが作った植民地(1625~1804年)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Saint-Domingue
 <また、>わずか、一匹の羊と二冊の偽造旅券群だけを携えて、自分が、アムステルダムを後にするにあたって、残された彼の妻に、貴族達の顔色をなからしめ、皇帝達を玉座から引きずりおろすことを公約したところの、欧州全域の諸革命に加わることよりも心をそそることがあろうか、と尋ねた、オランダの愛国派(Patriots)のゲリット・パーペ(Gerrit Paape)<(注6)>もそうだ。
 (注6)1752~1803年。オランダの絵皿絵師、詩人、ジャーナリスト、小説家、裁判官、コラムニスト、そして最終的には高級官僚。
https://en.wikipedia.org/wiki/Gerrit_Paape
 なお、愛国派は、米独立革命の影響を受け、1785~95年の間、君主のオラニエ公に対して叛乱を起こした人々。
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Netherlands#Patriot_rebellion_and_its_suppression_.281785.E2.80.931795.29
 彼らのうちの大部分は、ペイン(Paine)の「二つの諸革命に加わることでいささかなりとも目的をもって生きることになる」の言に賛同したことだろうが、パーペに至っては、4つもの革命に加わったのだ。・・・
⇒希代のペテン師達であった、ジェファーソンら米建国の父達の嘘八百を真に受けて、(イギリス人こそ、当然のことながら、殆んどその悪影響を受けなかったけれど、)野蛮な文明に育まれた無知で無辜の欧州人達が、憐れにも、米独立革命に協力したり、猿真似を始めたりした、ということです。(太田)
 この頃より前までは、旅行は、グランドツァー(Grand Tour)<(注7)>でもって彼らの文化への欲求(claim)を完結させたところの、富者の排他的領域だった。
 (注7)「17-18世紀イギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った大規模な<フランスやイタリアへの>国外旅行である。・・・同行の家庭教師が付くのが一般的で、トマス・ホッブズやアダム・スミスも家庭教師役を務めた事がある。・・・フランス革命の開始とともに一旦の終焉を迎えるが、19世紀に入ってからも、最良の教育を受けた若者たちは、グランドツアーに出かけるのが常であった。その後、これは若い女性たちにとっても一種のファッションになっていった。・・・19世紀、アルプス山脈にはグランドツアーの伝統によってイギリス人若者が多く訪れた。アルプス山脈の主峰39座のうち、31座の「初登」はイギリス人によることになった。」 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC
(続く)