太田述正コラム#0345(2004.5.10)
<アングロサクソンバッシング(その5)>

 ブルマとマルガリット(以下、「ブルマら」という)は、日本の反英米主義がドイツ由来であることを、懸命に論証しようとします。
 ブルマらが注目するのが、ウィルヘルム二世時代にドイツに留学して憲法学を学んだ上杉慎吉(注6)東大法学部教授であり、その上杉が1919年に書いた論文(注7)です。

(注6)1878??1929年。1910年代には同僚の美濃部達吉の天皇機関説を批判し(天皇機関説論争)、1916年には同じく同僚の吉野作造の民本主義を批判し(民本主義論争)、そして1920年には東大経済学部助教授の森戸辰男の東大経済学部機関誌掲載論文「クロポトキンの社会思想の研究」を批判し、森戸事件(最終的に著者の森戸と機関誌発行人の大内兵衛東大経済学部教授両名が新聞紙法違反判決確定により失職した)の引き金を引いた(http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/taisho/jikoh/uesin.htm、及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/S/S165R100.HTM(5月9日アクセス))。
(注7)Buruma & Margalit A では孫引きされており、上杉のどの論文を指しているのかは不明。

 ブルマらは、この論文の次の一節を引用しています。
 「日本の臣民は天皇陛下の大御心に違背する考えは持たない。臣民各々の自我は天皇陛下に捧げられる。天皇陛下の大御心のままに行動すれば、臣民はその本然の姿を顕現でき、道徳的理想に到達することができる。」
この上杉等の考え方がベースになって、1937年5月31日に文部省によって「国体の本義」が制定され、その中で、the Japanese were "intrinsically quite different from so-called citizens of Western nations," because the divine imperial bloodlines had remained unbroken, and "we always seek in the emperor the source of our lives and activities." The Japanese spirit was "pure" and "unclouded," whereas the influence of Western culture led to mental confusion and spiritual corruption.(注8)という主張がなされたというのです。

(注8)これは、「我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。」「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。」「天皇はこの六合の内を普く照り徹らせ給ふ皇祖の御徳を具現し、皇祖皇宗の御遺訓を継承せられて、無窮に我が国を統治し給ふ。而して臣民は、天皇の大御心を奉体して惟神の天業を翼賛し奉る。」(http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html。5月10日アクセス)のあたりのところを指していると思われる。
    なお、「国体の本義」は、1935年に国会における美濃部達吉の天皇機関説批判論議を契機としていわゆる国体明徴運動が激化し、その中で政府が制定に追い込まれたものである(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kokutaimeityou.htm。5月10日アクセス)。

また、第一次世界大戦の初めの頃の1914年のベルギーのランゲマルク(Langemarck)の戦いで、英雄崇拝観念のとりこになったドイツ軍の若者達からなる部隊が決死的攻撃を行ったにもかかわらず、結局、ランゲマルク周辺の戦いは塹壕戦となり、1918年の終戦までの間に14万5000人が犠牲になったというのですが、ブルマらは、この若者達の決死的攻撃を引き合いに出し、これがその30年後の先の大戦の際の日本の神風特攻隊の範例となったと述べています。
 (以上、特に断っていない限り、Buruma & Margalit Aによる。)

私は、ブルマらのこの日本の反英米主義(=オクシデンタリズム)ドイツ由来説は、牽強付会だと思います。
特攻隊ランゲマルク戦由来説はご愛敬として、上杉慎吉について言えば、彼は天皇機関説論争では天皇機関説が政府の公定解釈となったことで美濃部に敗れ、民本主義論争でも大正デモクラシー時代到来によって吉野に敗れています。また、森戸事件でも上杉は学問の自由を圧迫する者として世論の厳しい批判を受けました(前掲旅研サイト)。つまり、上杉の生前の日本は朝野をあげて親英米主義であり、上杉の影響力は極めて限定的なものでしかなかったわけです。
その後、日本は反英米主義に転じるのですが、その時代に制定された「国体の本義」については、その総論的部分を熟読玩味した上で慎重に解読する必要があります。

「先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。・・西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見<た>・・抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。」「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。」(前掲http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html

(続く)