太田述正コラム#7878(2015.8.29)
<ヤーコブ・フッガー(その9)>(2015.12.14公開)
 「フッガーの法王庁との密接な諸コネは、やがて彼を法王庁によって売却された免罪符群の送金代理人になることへと導いた。
 この取引は恩寵(grace)と現金の交換だった。
 すなわち、煉獄での時間短縮がローマのサン・ピエトロ・バシリカの建設への慈善的諸寄付の見返りというわけだ。・・・
 ルターは、フッガーのアウクスブルクの宮殿のような邸宅を訪れ、彼と彼の生活を抑圧的な権力である、とみなした。
 ある意味ではその通りなのだった。
 というのも、フッガーからカネを借りた統治者達は、自分達の諸債務を返済する必要から、自分達の領地の人々に大変な重税を課したからだ。
 ドイツの農民達が叛乱を始めた時、フッガーは、君侯達を(ルター同様)支援しただけでなく、この諸叛乱を鎮圧するための諸資金を、彼らに供給したのだ。・・・」(C)
 「経年的に、フッガーは、「教会向け献金皿献金をドイツからローマへ送金する事業」をコントロールする権莉を得、それでもって、彼は、「神の銀行家、法王庁への首席金融家」になり、「法王を守るためのスイス人傭兵達への給与支払い担当に自らを任じ、かつまた、スイス人法王衛兵隊(Swiss papal guards)<(注27)>の伝統を始めた。」
 (注27)「1505年6月に<法王>ユリウス2世<(後出)>はそれまで教皇領では兵士は臨時に傭兵を使用してきたものを改め、常備軍を創設することを決定し<、>当時<欧州>の傭兵の中では無類の強さで知られていたスイス傭兵<を>採用<し>た。・・・
 1527年5月6日のローマ略奪<(コラム#5774)>の際には189人のスイス衛兵のうち147人が戦死している。また1571年にヴェネツィア共和国が支配していたキプロス島をオスマン帝国が征服しようとした「ファマグスタの戦い」にスイス傭兵は「<法王>の軍隊」として派遣されたほかレパントの海戦にも派遣されている。・・・
 衛兵隊の公用語はイタリア語とドイツ語である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E5%82%AD%E5%85%B5
 「ローマ略奪(・・・ Sacco di Roma)は、1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、・・・フランスと結ん<でいた>・・・クレメンス7世(レオ10世の従弟)<を戴く>・・・教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件を指す。・・・スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%95%A5%E5%A5%AA
 彼は、また、「法王ユリウス2世(Julius II)<(注28)>の選挙運動に4,000デュカット(ducats)(5,600フローリン)を貢献し、ユリウスが選出されるよう、枢機卿達に鼻薬を嗅がせた。
 (注28)1443~1513年。法王:1503~13年。レオ10世の先代。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ。「治世において教皇領とイタリアから外国の影響を排除しようと・・・奮闘<した。>・・・1492年のコンクラーヴェ<で法王就任が有力視されていたが、>・・・巨額の賄賂によって枢機卿たちの票を買いまくった・・・ロドリゴ・ボルジア・・・が圧勝し、<法王>アレクサンデル6世を名乗ることになった。・・・<後に、>ローヴェレは・・・[枢機卿達を賄賂やポストの約束でもって籠絡するとともに、]アレクサンデル6世の庶子で教会軍総司令官であったチェーザレ・ボルジアの支持を取り付けるという政治的な離れ業をおこなって<法王>位につき、ユリウス2世を名乗った。<(>用済みとなったチェーザレは捕縛され・・・脱走したが、1507年に戦死。<)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B92%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87) (←出来が悪い)
 彼は、当時の歴代法王の中では当たり前のことだったが、枢機卿時代に情婦との間に子供を一人作っている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Julius_II
 ユリウスは、謝意を示すために、フッガーに法王庁の貨幣を鋳造する契約を供与した。
 フッガーは7代の諸法王に仕え、そのうち4人の諸貨幣を鋳造した。・・・」(E)
 (4)評価
 「フッガーの時代、と呼ばれたところのもの、は封建時代と初期資本主義時代の間の、欧州の経済の中心(重心)が地中海から大西洋に移りつつあり、金融の場所(locus)がアウクスブルクに短い間だけとどまるも、北イタリアからオランダへと動きつつあったところの、遷移的期間だった。
 ヤーコブ・フッガー自身はヤヌス(Janus)<(注29)>のように、二つの諸時代の間に屹立しているわけだ。
 (注29)ヤーヌス。「ローマ神話の出入り口と扉の神。前後2つの顔を持つのが特徴である。表現上、左右に別々の顔を持つように描く場合もある。一年の終わりと始まりの境界に位置し、1月を司る神である。・・・他の著名な神と異なりギリシア神話にはヤーヌスに相当する神はいない。英語で1月をいうJanuaryの語源(ヤーヌスの月)でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9
 政府債より前の時代において諸君主に直接貸し付けるにあたって、フッガー<のやり方>は、彼より先行し、しばしば信頼できない王室の信用(credit)に支払い能力の有無(solvency)が依存していたところの、中世のロンバルディア(Lombard)の銀行家<(注30)>達のそれと類似していた。
 (注30)ロンバルディア式銀行(Lombard banking)。利子の禁止をかいくぐるために、カネを貸す際に担保を買い取り、後にそれを利子を上乗せした形で買い戻させる方式で銀行機能を果たしたものを指す。
https://en.wikipedia.org/wiki/Lombard_banking
 しかし、彼は、世評によれば、ドイツに複式簿記を導入した最初の人物なのだ。
 彼は、ステインメッツ氏が呼ぶところの、彼の事業諸活動について知らせる最初のニュース・サービスを創り出した。
 フッガーの、外国での採掘諸運用の中央集権的コントロール、及び、彼の諸事務所の国際的ネットワーク、は多国籍企業の魁だった。
 フッガーの諸起業における合理性の気風は、明確に近代的な感を漂わせている。・・・
 フッガーは、様々な形で、教会の高利貸しの禁制を終わらせたことに責任を有すると描写された。
 そして、北欧の交易同盟(trade confederation)であるハンザ同盟(Hanseatic League)<(注31)>を引きずりおろし、究極的に宗教改革の「引き金を引いた」貸付金を提供した、というわけだ。・・・」(D)
 (注31)「ハンザ同盟の中核を占める北ドイツの都市は神聖ローマ帝国の中で皇帝に直接忠誠を誓う帝国都市であり、相互に独立性と平等性を保つ緩やかな同盟だったが、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した。しかし同盟の恒久的な中央機構は存在せず、同盟の決定に拘束力も弱かったので、政策においてはそれぞれの都市の利害が優先された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B6%E5%90%8C%E7%9B%9F
(続く)