太田述正コラム#7926(2015.9.22)
<ルソーとスミス(その1)>(2016.1.7公開)
1 始めに
 久しぶりに、アングロサクソン文明と欧州文明の対峙問題ともからむ話題を取り上げることにしました。
 俎上に載せるのは、イシュトファン・ホント(Istvan Hont)の『商業社会における政治–ジャン=ジャック・ルソーとアダム・スミス(Politics in Commercial Society: Jean-Jacques Rousseau and Adam Smith)』であり、その書評一つと解題一つをもとにこの本のさわりをご紹介し、私のコメントを付したいと思います。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/0/c4e2c3d0-3610-11e5-bdbb-35e55cbae175.html?siteedition=intl
(8月5日アクセス。以下同じ)
B:http://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674967700
 なお、ホント(1947~2013年)は、「ハンガリー出身の歴史学者。ケンブリッジ大学・・・教授。専門は、経済思想・政治思想史。ブダペスト大学卒業。ハンガリー科学アカデミー歴史研究所研究員を経て、1975年に渡英。オックスフォード大学でヒュー・トレヴァー=ローパーに師事したのち、1978年からケンブリッジ大学で教鞭をとる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%88
という人物です。
 ところで、ホントの考えを巡り、ホント自身を交えて、ハーヴァード大の政治思想、及び、行政、の2人の教授、及び、ボストン大の哲学の教授、が議論を戦わせる映像があり、
https://www.youtube.com/watch?v=v83Zh2IenM4
本来、参照すべきなのですが、冒頭をチラ見しただけで敬遠したことを申し添えます。
2 ルソーとスミス
 「・・・成長と安定をどう組み合わせ(combine)るかは、300年間にわたる、欧州政治理論の商売道具であり続けてきた。
⇒私に言わせれば、過去300年どころか、1万年以上前に始まったところの、狩猟採集社会から農業社会への転換以来、人類は、この、余剰と安定、と言い換えることもできる問題に取り組まざるを得なくなって、現在に至っているのです。(太田)
 それについて、ジャン=ジャック・ルソー、及び、アダム・スミス、の諸業績ほど、精妙に取り扱ったものはないのだが、一般の議論の中では、過度に単純化して[、両者は、対照的に、]描かれ続けてきた。
⇒かねてから私が指摘してきたように、ルソーは、イギリス(アングロサクソン)文明に劣等感を抱き、継受ないしは乗り越えによって、それに対抗しようとしてきたところの、欧州文明中の乗り越え派の巨頭であるのに対し、スミスは、イギリス文明を理念型化しようとしてきたところの、一連のスコットランド知識人中の第一人者であり、そういう意味では、やはり、両者は、対照的に描かれるべきなのです。(太田)
 すなわち、スミスは自由市場自由主義のイデオロギー信奉者であって[、近代性の弁明者(apologyst)であり、]、スミスに言わせれば、経済は政治を打ち負かす(trump)のだ。
 ルソーは近代性に対する夢見る共和主義的批判者であって、ルソーに言わせれば、政治は経済を打ち負かすのだ。・・・」(B)([]内はAによる。)
⇒ルソーは、政治の極限形態であるところの、革命によって、イギリス文明を乗り越えることを夢見たのに対し、スミスは、イギリス的生活様式たる個人主義/資本主義を理念型的に描写したのです。(太田)
 「・・・しかし、イシュトファン・ホントは、この二人の業績に顕著な共通性を見出し、どちらも、商業社会(commercial society)の、驚くほど似通ったものの諸見方(perspectives)から出発したところの、理論家達である、とする。・・・」(A)
⇒「商業社会」を「農業社会ないし工業社会」と言い換えれば、それは、農業社会以降の世界中のあらゆる知的選良達が、狩猟採集社会とは様変わりしてしまったところの、農業社会以降の社会を何とか説明しようとした、という当たり前の話の一環に過ぎないのであって、そんなことは、「驚くほど似通ったものの見方」でも何でもありません。(太田)
 「・・・<商業社会という>概念は、ドイツの哲学者のイマヌエル・カント(Immanuel Kant)が非社交的社交性(unsocial sociability)<(注1)>と呼んだものとかなり共通性がある。・・・
 (注1)「カント(1724~1804)は、人間は「社会を形成しようとする性癖」と「自分を個別化する(孤立化する)性癖」の両面を持っている、と考えていた。これは、人間は一人でいることもできないが、他人と一緒にいると不快にもなる、と、人間の抱える矛盾を分析している。こうした「イヤな奴とも付き合わなければならない」<のが、>社会<の中で生きるところの、人間>の宿命<だというわけだ。>・・・<カントにとっては、他人とは、基本的に、>自分の生活を快適にするための「設備」に過ぎ<ず、>・・・他人の侵害を極端に恐れてい<た。>」
http://hkst.gr.jp/review/10231/
⇒農業社会の到来によって、人間の生来的な人間主義性が抑圧され、基本的に日本以外の農業社会(以降の)社会は個人主義的な社会へと堕してしまったことに伴い、かかる社会の知的選良達が、人間主義の復活を期すべく、個人主義とは対蹠的な利他主義(集団主義)的な宗教や哲学を提唱するようになった、という背景の下、社会分析が、人間主義によってではなく、いわば、人間主義が分裂したところの、個人主義と利他主義(集団主義)の両面からなされるようになってしまった、というわけです。
 で、私の仮説は、カントもまた、欧州文明人の一人として、イギリス(アングロサクソン)文明に強い劣等感を抱いており、しかし、スミスらとは違って、イギリスにおいて、個人主義を矯正する安全弁たる人間主義的要素があることには気付かず、個人主義者だけの人間として生きることを自らに課した、ということではないか、というものです。
 カントは、何と、滑稽かつ醜悪な人物であったことでしょうか。
 (彼が、ひどい人種主義者であったこと(コラム#省略)は、既にご存知ですよね。)(太田)
 
 この2人が提起したところの、個人主義と利他主義の関係についての諸設問は、実際のところ、・・・政治における道徳性と商業社会における政治によって引き起こされた、より根本的な諸問題から掻き立てられたものであることから、通常考えられてきたよりももっと近似しているのだ。
⇒既に述べたところから、こんな命題はナンセンスです。(太田)
 商業は相互性を必然的に伴うが、商業社会は、非自発的な社会的相互依存、容赦なき経済競争、及び、不断の国家間対抗(rivalry)、をも必然的に伴う。・・・
 現代の政治理論は、この二人の諸関心を超えて前進しては殆んどいない。・・・」(B)
⇒農業社会の到来による余剰の発生とそれに伴う富の偏在が、交易(商業)を中心とする相互依存関係を発展させるとともに、戦争を含む紛争や犯罪を多発化させた、ということなのであって、そうである以上、「現代の政治理論」が「この二人の諸関心を超えて前進しては殆んどいない」のは当たり前です。
 およそ、政治学や経済学・・アリストレスの当時は政治学であり、アダム・スミス当時は政治経済学になったが依然として単一の学問だった・・のいつに変わらぬ中心的テーマこそ、相互依存(平和/市場)と紛争(戦争/市場の失敗)なのですからね。(太田)
(続く)