太田述正コラム#7940(2015.9.29)
<中共が目指しているもの(その3)>(2016.1.14公開)
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[毛沢東の教育政策は日本譲りなのか]
 経済学者のアマルティア・センの言に触発され、「毛沢東が、広義の社会政策の面から、日本化を始め、トウ小平は、それを政治経済面・・後には政治面を後回しにし、経済面を先行させることにした・・まで拡大しただけ、ということになりそう」(コラム#7833)という仮説を提示したところだが、毛沢東云々の部分が裏付けられないか、少し調べてみた。
 毛沢東の教育政策についてだが、彼が教育を重視したことは、中共における識字率の向上だけからも見て取ることができる。↓
中共  1949年20%、1970年52.9%、2006年93.0%
インド          33.1     65.2
http://www.geocities.jp/viva_keyaki/KeyakiArchive/CinaEdu0802.htm
http://www.accu.or.jp/shikiji/overview/ov03j.htm ※
 すなわち、英領インドも独立インド(パキスタン、バングラデシュ)も教育を重視せず、また、中華民国も同様であったのに対し、中共が重視したことは歴然としている。
 さて、※からは、旧英領諸国が(スリランカ、及び、日本占領を経験した諸国を除き)識字率が低く、旧仏領諸国も旧英領より少し高いだけであるのに対し、日本占領を経験した諸国・・支那もその相当部分が日本占領を経験した・・の識字率が高いことが注目される。
 しかし、これだけで、毛沢東ないし中共の教育政策は(その限りにおける)日本化であった、と断定するのは早計と言うものだ。
 というのは、同じ※から、ソ連崩壊までソ連の保護国であったモンゴルの識字率も高いことが分かるからだ。
 つまり、毛沢東の教育政策は、彼が一応スターリン主義者たることを標榜していた以上、ソ連譲りのものであった可能性も排除できないわけだ。
 そこで、毛沢東の日本フェチぶりを、一度、前に(コラム#7820で)紹介したことがあるところ、以下、青年毛沢東の教育観がどのように形成されたのか、を解明することにしたい。↓
 毛沢東は、自分が教師に向いていると思い、日本留学経験のある校長孔昭綬の下で、湖南第一師範学校に学んだ。
 卒業後に、「半植民地国家に陥った中国が西欧列強に対抗するため、強い国民の必要を感じ、日本などの軍国民教育思想に啓発されて<始まった>体育重視の思潮<の影響下で書かれた>毛澤東の「体育之研究」<は、>中国の「近代史上において体育理論について全面的に論じた最初の著作」と評価されている。・・・
 <また、>新文化運動の最中<の>・・・1919年・・・に武者小路実篤らが実践していた「新しき村」の消息が中国に伝わった。みずからの労働によってみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かせる生活を全うすることをめざした「新しき村」の精神と実践に毛澤東は憧れを抱いた。生徒の個性の束縛や学校教育と社会とが遊離している状況などについて批判的精神を持っていた毛澤東は、1919年12月「学生之工作」を書いて工読思想についての構想を次のように述べた。新しき村を作り、そこで新しい家庭、新しい学校、および新しい社会を一体とする新しい生活を営む。新しい生活とは、生産的実際的農村の活動である。その中での新しい教育は新しい家庭、新しい社会の創造と関連すべきであり、新しい生活の創造に重点をおく、と毛澤東は述べた。毛澤東は現状の学校教育の非生産的、非実際生活的、読書人は都会をめざして農村をきらうといった弊害を批判し、農村を嫌う読書人を農村に行かせ、直接に生産に従事させ、現在の社会に必要とされる製品を生産させる。同時に地方自治の中堅としての役割、現代の選挙制度の指導監督者としての役割を読書人が果たすことを提案したのである。」
http://www.marxism.org.cn/blog/u/95/archives/2009/335.html
 文化大革命の時に毛が行った上山下郷運動、いわゆる下放
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%83%B7%E9%81%8B%E5%8B%95
の元ネタが、実は、「新しき村」であった、というわけだが、それはともかく、こんなに、徹底した日本フェチであった毛に、ソ連の教育政策的なものが入り込む余地などありえなかった、と見てよいのではなかろうか。
 もう一つの根拠は、満州国における初等教育就学率の向上だ。
 1932年の17%が、1941年には40%まで向上している。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0040/DB00400L037.pdf
 残念ながら、同じ時期の支那本体の数字が、少し調べた限りでは得られなかったが、恐らくこれほどの向上はなかったのではないか。
 満州を拠点にして蒋介石政権を打倒した毛沢東として、少なくとも、満州国が達成できたものを、全国ベースで後退させるわけにはいかなかった、と見るべきではないか。
 最後の根拠は、毛による郭沫若(Guo Moruo、1892~1978年)の重用だ。
 郭の経歴は、「岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。・・・戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に就任。1950年全国文学芸術連合会主席、1954年全人代常務副委員長。1958年共産党に入党。1963年中日友好協会名誉会長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%B2%AB%E8%8B%A5
という輝かしいものであり、日本で高等教育を受け、日本人女性との間にも5人の子をなした郭に、初期中共において、理系の学問の公的元締め、文系の学問の事実上の元締めをさせたのだから、毛の、日本傾倒ぶり、ひいては、高等教育以下、全ての教育において、日本を参考にしようという思い、が感じられる。
 なお、アマルティア・センは、毛は医療制度も日本を参考にしたと述べているが、こちらについては、依然、検証ができていないことを申し添える。
 参考:「新生中国では,51年の「労働保険条例」により社会保険制度が始まりました.それは医療保険だけでなく年金、生命保険、出産・生育保険、労災保険、および家族保険などをふくむ包括的なものでした」
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/asia/china/insurance.htm
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(続く)