太田述正コラム#8088(2015.12.12)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その3)>(2016.3.28公開)
 「<日本の>陸軍士官学校<は、>・・・1932年より満州国から、1936年からは徳王<(注5)(コラム#4006、4008)>のモンゴル軍政権からの留学生を受け入れるようになり、大勢のモンゴル人青年軍人が日本式軍隊教育を学んだ・・・。・・・
 (注5)デムチュクドンロブ(1902~66年)。「満州事変勃発後、徳王は日本軍と連絡を取り合うようになり、同じ内蒙古自治運動を指導していたユンデン・ワンチュク(雲王)などともに1933年に内蒙古王公会議を結成。国民政府に対し高度な自治を要求した。これを認める形で翌1934年に蒙古地方自治政務委員会が成立、徳王は秘書長となった。
 その後1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると総司令・総裁に就任。1936年11月に徳王麾下の内蒙軍や李守信と王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、同省主席の傅作義軍に撃退された(綏遠事件)。盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月17日に包頭を占領。雲王・徳王・李守信はこれに応じる形で10月28日に厚和(綏遠を改称)にて蒙古聯盟自治政府を成立させた。当初、雲王が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。1938年10月、徳王は初めて訪日した。準国賓待遇を受け天皇に拝謁し、勲一等旭日章を受勲した。蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府となった。首都は張家口に置かれ、名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。1941年2月徳王は二度目の訪日を行った。自治国として承認させることであったが、承認しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%96
 李守信(1892~1970年)も「モンゴル族出身。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%88%E4%BF%A1
 王英(1895~1950年)は漢人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8B%B1_(%E6%B0%91%E5%9B%BD)
 なお、ユンデン・ワンチュク(1871~1938年)は「モンゴル(内蒙古)の王族」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF
 本土以外では日本はまた新京(現長春)・・・に、満州国陸軍軍官学校<(注6)>を1939年3月に創立した。
 (注6)「同校は1932年に設立された・・・奉天軍官学校(1941年解体)を前身とする。・・・2期<生に>朴正熙<がいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 一期生は翌年に入学し、帝国が崩壊するときは7期生が入ったあとだった。
 合計2000人が在学し、そのうちの800人が卒業している。・・・
 <モンゴル人、日本人を含め、>多民族からなる軍官学校だった。・・・。
 興安軍官学校<(注7)>は日本内地の陸士とも、満州国陸軍軍官学校とも性質や特徴が異なる。
 (注7)「興安軍(こうあんぐん)とは、満州国内のモンゴル族居住地域である興安省(興安四省)、熱河省を含む地域(現在の内モンゴル自治区の東部に相当。)を管轄した満州国軍の部隊の総称。兵員はモンゴル人によって構成されており、騎兵を主力部隊としていた。・・・
 満州国軍の軍官(士官)の教育・訓練は、1932年9月から中央陸軍訓練処で行われていたが、言語・習慣などの違う漢人とモンゴル人を一緒に訓練することは困難であった。1934年7月1日、軍政部はモンゴル人軍官を専門に養成するため、興安軍官学校(校長:バトマラプタン兼任、顧問:下永憲次少佐)を鄭家屯の仮校舎に開設した。第一期生は72名が入校し 、翌年8月1日、学校は王爺廟の本校舎に移転した。興安軍官学校では、モンゴル民族の復興を趣旨とし、当初はモンゴル人唯一の高等教育機関として軍人の養成だけでなく、将来モンゴル人の指導者となる人材を養成することを目的として教育にあたっていた。1939年10月、陸軍興安学校に改称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%89%E8%BB%8D
 興安軍官学校は大日本帝国が外地で作った唯一の、特定の民族のための学校である。
 モンゴル軍幼年学校<(注8)>も同様にモンゴル民族だけの軍学校である。・・・
 (注8)?
 モンゴルの民族独立という目標は20世紀初頭に部分的に実現した。
 1911年暮れにモンゴル高原北部のモンゴル人たちはチベット仏教の指導者を大ハーンに擁立して、ボグド・ハーン<(注9)>政権を創立した。
 (注9)Bogd Khan。1869~1924年。「モンゴル最後の君主・・・<=>ハーン(皇帝、在位1911年~1919年、1921年~1924年)。・・・本名、ガワンロサン・チューキニマ・テンジンワンチュク。化身ラマとしての名跡はジェプツンダンバ・ホトクト8世。チベット人。・・・
 外モンゴルが大モンゴル国・・・となって清朝から独立宣言した際、・・・外モンゴルの諸侯に推戴されて神権政治を敷き、1911年12月29日に即位した。・・・従来「ボグド・ゲゲーン(お聖人さま)」と呼ばれていた<が>、以後「ボグド・ハーン(聖なる皇帝)」とよばれるようになった。1912年には内モンゴルの諸侯も帰服したため、・・・1913年1月には内モンゴルに軍隊を派遣して帝政ロシアの要請で撤退するまでは内外モンゴルの統一を画策した。1917年の十月革命で後ろ盾だった帝政ロシアが崩壊し・・・、1919年に中華民国(北京政府)軍にモンゴルを占領され、ボグド・ハーンは退位させられ、自宅軟禁下に置かれた。しかし、1921年に・・・<ロシアの白軍のモンゴル侵入による中国軍駆逐のおかげで>復位した。<ロシアの>赤軍<等>に指導された革命の後、1924年に死去するまで、制限君主制の下で帝位にあることを許された。ボグド・ハーンの死後、共産政権はもはや活仏の転生を認めず、モンゴル人民共和国の建国を宣言した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
 紆余曲折を経て、ボグド・ハーン政権<(注10)>は1924年にソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国に変身する。
 (注10)「1913年には、同じく清朝からの独立運動を展開していたチベットとの間で相互承認条約を締結した。・・・内蒙古でも独立を目指す動きが見られたが、内蒙古の大半の地域が漢民族居住地になっており、中国は内蒙古を手放そうとしなかった。また、漢民族が主体の内蒙古を併合することで政権の主導権を奪われることを恐れたモンゴル人の思惑もあり(既に内蒙古では、漢族がモンゴル族の5倍近い人口となっており、内蒙古をモンゴル領とした場合、モンゴル族より漢族の数の方が多くなってしまう可能性があった)、内外蒙古の合併は実現しなかった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%94%BF%E6%A8%A9
 世界で2番目の社会主義国家である。
 モンゴル高原の南部、内(みなみ)モンゴルの王侯貴族や知識人たちもボグド・ハーン政権に馳せ参じて忠誠を尽くしたものの、侵略してきた中国人の軍閥に阻止され、独立に合流できなかった。
 遊牧民が歴史的にずっと住み続けてきた草原に中国人の植民地村落があちらこちらで開拓され、モンゴル人と中国人が混住していたからだ。
 中国人はあいかわらず草原を破壊し、殺戮を働く。
 敵の中国人との共生は困難だ、と認識したモンゴル人は民族の独立とモンゴル高原北部の同胞たちとの統一を目指して闘わなければならなかった。
 民族の独立と統一は武力で獲得しなければならない、と悟ったモンゴル人は近代的な軍事知識を渇望していた。
 そのため、日本が内モンゴルで設置した興安軍官学校はモンゴル民族の最も人気のある学校となったのである。」(11~13)
⇒楊は司馬遼太郎賞を受賞している(彼のウィキペディア前掲)のですが、彼の、漢人悪者観に立脚したところの、一面的かつ恣意的な歴史描写はまさに同賞にふさわしい、と皮肉りたくなります。
 ロシアの南進に危機意識を抱いた末期の清・・皇帝は満州族であって漢人ではない・・が、漢人を防壁とすることを目論んで漢人のモンゴル入植解禁に踏み切ったおかげで、内モンゴルだけは、ロシア/赤露圏への編入を免れることに成功し、かつまた、外モンゴル側としても、漢人が圧倒的多数となった内モンゴルとの統合がモンゴル全体の漢人による乗っ取りをもたらしかねないことへの警戒心が生じ、当然のことながら、ロシア/赤露側も統合を望まなかった、といった観点が、楊の叙述から完全に抜け落ちているのですからね。(太田)
(続く)